般若理趣経(大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品)の光りに触れて
初めて『般若理趣経』の手ほどきを受けたのは、昭和四十三年八月、東京都清瀬市円通寺青木融光大阿闍梨の門を叩いたときであった。爾来、般若理趣経は真言宗の根本経典として今日に至るまで小生の拠り所としてきた唯一の経典である。しかし、この経典を誠心をもって読誦し書写することはあっても、浅学非才である者は決して和訳してはならなといさめられてきている。だが大罪を犯す極悪非道の人間として窮地に立たされて、初めてこの理趣経の真意に触れ、救われる経験をして以来、法坐を通し探求してきた。しかし、小生では全く歯が立たない。だが、何かがこの経の重要性を押している。それは人間の原罪を救うものは光り輝くものであり、人間自身にあるという般若理趣経の根本であった。
今世紀に入って、人間は未曾有の苦しみに陥っている。異常気象・大震災・ウイルス感染症や核戦争の脅威・・・。ならず者が仕掛ける戦争を前にして人類の叡智である国連が機能しない。欺瞞に満ちたイデオロギーや正義や信仰の名のもとに、いのちをいのちとも思わない暴力の応酬が繰り返されている。これを止めるのは誰か。神か?人間の作り上げた欺瞞に満ちた神が戦争を止めことは不可能であることを歴史が証明している。二十一世紀に入ってますます手段を選ばず、非業な暴力と破壊の戦争を繰り返し、核兵器に依存している。これは正義でも神のなせる業ではもない。人間の欺瞞といわずして何というのか。世界が滅びる前にこの自己欺瞞に終止符をうたねばならない。その欺瞞性に気づく人間自身によるしかない。人々の悲しみと苦悩を直視せよと説いたのはブッダであり、そのブッダの根幹が般若理趣経にある。それゆえ、偉大なる先師の正当な理解と、浅学だが筆者自身が見えざるものに導かれた視点で、「般若理趣経」を現代に問うものである。
本初不生
すべてのいのちは本不生(光り輝くもの)の顕現体である。
その顕現体とは、はいかなるものも本不生(光り輝くもの)から個々の生命体として顕現している。
現象界は潜象なる本不生(光り輝くもの)と絶えず互換重合しながら刻々に現象化している。
ゆえに、世俗諦と真諦は本来一つである。
ひとは無明による分断という欺瞞によって苦悩に陥る。
このことに、ひとりびとりが気づき、本不生(光り輝くもの)と加持・感応同交し、ひとりびとりが光り輝くものとなるべく
ブッダは導かれた。
最後の書
【令和4年1月】
この正月は例年にない大雪が続き、寺もすっかり雪に埋もれていたのであるが、突然、ある檀家さんから、「自分のお墓に不思議な氷が現れている。」というお知らせを受けた。
1月22日早朝のこと。早速、そのお墓を確認したが、確かにはっきりと出現していた。ほかの場所にも出現していないかと、法圓寺と歓喜寺の境内とお墓をざっと調べてみたが、氷の像が顕れていたのはこの墓だけであった。
この話を聞いて、以前から、法圓寺境内には思議しがたい氷の聖像が度々出現している「手水鉢」を確認したが、この冬の大雪にすっかり埋もれてしまっていた。
正直のところ、この冬は、雪も多く、雪が溶けるまで氷の聖像は見られないだろうとたかをくくって油断していた。それに、これまで、こうした特異な氷の像は毎年現れるとは限らない。
故に、この日のある檀家さんからお墓に氷の聖像が現われているという知らせには、さすがに驚いてしまった。
墓地は大概は雪に埋もれてしまっていたのだが、この方は、毎日、欠かさず墓参をするので、丁度この方のお墓は雪が綺麗に掃き清められていたのであった。
この写真のように、一見すると、「不動明王の剣」のようにもみえる不思議な形であった。
しかも、このお墓には、平成30年の冬にも、同様の「不動明王の剣」が出現した。
このときもそうであったが、このお墓で不思議な因縁を感じるのが、この墓には「阿遮院何某」という戒名が刻まれている。この「阿遮院(アシャイン)」の由来は、あの法圓寺のつくばいに氷の聖像で出現した「アルナチャーラ」すなわち「アシャラノーダ」のことで、漢訳で「不動明王」をあらわす。不動明王信仰に篤い方であったので、インドの聖丘「アルナチャーラ」にちなんで阿遮院をお授けしたのであったが、まさか、その方のお墓に氷の聖像が出現するとは、全く、考えも及ばないことであった。
ただ、平成30年のときは、ほかのお墓にも、全く不思議な氷の聖像が幾体か出現していた。
今回ははこの場所だけのようであった。
(こういうことは たまたま出現した氷による自然現象にすぎない。)
そうであれば、そのほうが、小生としてはかえって、気が楽なのだが・・・・・・そういうわけにはいかんぞという強烈な印象があった。
これまで、何度かご紹介せざるを得なかったように、法圓寺小生の近辺では、平成20年以来、不可思議な形状をした氷の聖像が度々出現している。しかも、その出現の前後には、必ず、「地球規模の重大異変や事変が起きている」こと重なっており、単なる偶然だけでは片付けられない見えざる世界からの何らかのはたらきかけを暗示しているような気がしてならない。
とはいえ、浅はかな推量で、これらの現象を云々できるものではない。
ゆえに、このお知らせを受けてはいたが、今年は、大雪の中、法務や雑事に追われるなか、ただ、安閑として時を過ごしていたのだった。
今年の、この氷の聖像を見て、内心、非常に危惧するものを覚えた。
妙に気になったのは、今回、お墓に出現した氷の聖像は、前に出現した「不動明王の剣」というよりも、
「平和を象徴する鳩」のように見えることであった。しかも、氷の面に映えるその姿は「鳩」そのものであり、近くの南天の赤い実の色が不気味でもあった
。
「鳩は平和の象徴」である。
ということは、もしかすると、いま、世界は、逆に、「平和」がいちじるしく脅かされるという危うい状態にあるのであろうか?
逆に「戦争」を暗示しているのだろうか?
人類の愚かさが再び戦争引き起こしかねない。しかも、核戦争を・・・・そういった危機感が見えざる世界にあるのだろうか?
小生が、そういう懸念を抱くのは、かつて、昭和51年頃、ある不思議な感受性を持つ希有の恩師から、ほんのわずかの時間ではあったがでは、病身を押してまでそばにいた小生に必死に語っていた不可解な話の内容を思い出すからである。
その内容は以下の通りである。
「地球人類の物質界に偏った意識と行為の乱れが、今後、地球上に大きな天変地異が引き起こすことになる。
最大の問題はこれまでもそうだったように、まちがった宗教やイデオロギー、民族闘争などや権力による搾取や欺瞞性にある。地球にも意識があるのであり、その中の一部でしかない人類の意識が自己中心的覇権争いを重ね、欺瞞と搾取を繰り返し、しかも、搾取される側の悲劇はますます増大し、これがきっかけで、おろかにも核戦争のボタン押しかねない状況に来ている。1度押してしまったならばもう取り返しはきかなくなる。これまでの戦争とはわけが違う。これをなんとしても止めねばならない。だが、人間社会は愚かにもますます危険な状況を生み出しつあるのだ。
とはいえ、忘れてはならない大事なことがある。
それは、この危機的状況を回避すべく、意識的に連動している地球も、また、見えざる潜象の世界にある如来や大天使たちが、いま、必至に対策を講じていることを・・・。それは、非常に真剣である。
人類の意識の乱れが、そもそも異常気象や大地震、飢饉や疫病、はたまた様々な戦争が起こすのである。こうした人類の誤った方向は地球という魂の修行場が破壊してしまうのだ。それは萬霊魂にとって、地球上最後の塗炭の苦しみに陥ることにほかならない。」と。
その話を聞いたのは、そのとき、独りでいた小生のみである。
そして、この恩師はこの話を小生にされてから、まもなく他界されたのだが・・・・。
あれから46年過ぎた令和4年になって、この恩師から聞かされた内容が、なぜか、ますます真実味を帯びてきているように思える。
このとき、小生は果たして、恩師が語るように、人類は愚かなことに核戦争のボタンを押して大惨事を招くのであろうか?
まさか、そこまで人類は愚かではないであろう。必ず落としどころを見つけるに違いない。
恩師の話を聞きながら内心そう思っていると、恩師は小生の心を見透かすかのように、
「いいかね、よくききなさい。これまで人類はいったい何をなしてきたというのであろう?
釈迦やイエスの本当の教えは、現代にいかされているのであろうか?
現代は、ブッダやイエスの教訓の真実を見失い、人類のエゴイズムの処世に翻弄されるばかりで、とうとう、神や大義や正義の名の下に、平気で自他を殺し、戦争を起こすという愚か者になりさがった。
しかも、忘れてはならない鉄則がある。
いかに、如来や仏陀が潜象界よりこの現象界に警鐘を鳴らしたとしても、
この現象界の責任者はこの現象界に今生きているわれわれ自身であるのだ。
今生きているわれわれがどう行動するかにかかっている。
この現象界は、この世界に住むものたちに全てが任されている。
それゆえ、この世界では狂気に走るものがあれば、たちまち連鎖的に戦争は起きてしまうのである。
つまり、地獄を選ぶか極楽を選ぶかは、ひとえに、今ここに生きるわれわれ自身の心と行動にかかっているといえる。
ゆえに、人類ひとりびとりが地獄の沙汰となるような狂気の意識を悔い改めるべく軌道修正し、意識の変革を起こさねばならない。
このままでは、かけがえのない魂の修行の場を破壊してしまいかねないのだ。
それゆえ、大天使たちは必至である。
このままでは私は(恩師)この世から去って、潜象界に戻り、向こうの世界から、人々の魂の奥から心をこじ開け警鐘を鳴らし、人々の意識を直し、その変容を促すしかないことになる。」
このような不可解な話をされて、この数日後、恩師は病身のまま息を引き取り、他界されてしまった。
奇跡の生還を願って、恩師のそばにいた小生には、これは、決して忘れることのできない恩師の最後の遺言となってしまった。
ところで、仮に、潜象の世界から氷の聖像が現れているとするならば、この鳩のようなものは何を示しているのだろう。
この不思議な氷の聖像に対する危惧感もあって、1月28日初不動護摩はここ2年ほど修してきた「聖観音法次第の護摩法」ではなく、「不動明王護摩法」に戻して、大日・弥陀・薬師・聖観音・弁財天・不動明王を勧請し、不動護摩を供養修法した。
が、あろうことか、1月30日早朝、今度は、全く予測もしていないところに、氷の聖像が出現!したのである。
本堂の正面の階段脇に墓参用のお花をちょっとおけるようにおいてあったプラスチック製の黒い花桶鉢の一つに、上記写真のように、彼の「三角四面体」が複数出現していたのである。
例によってすぐほかのところを探してみたが、やはりここだけであった。しかも、いつもの「つくばい」はまだ雪に埋もれたままであった。
ということは、今回は、まるで、「大雪で皆覆われてしまっていて、氷の現象を出して気づかせようにも現象を起こしようもない。しかし、ことは重大な局面にある。安閑としていてはならないのだ!なんとしても気づかせねばならない。そのため、再び三角四面体を示すべく、まるで手当たり次第に可能な場所を見つけ、おまえの身近なところに現象を示しているのだ!」といわんばかりもののにさえ感じる。
とはいえ、元々、凡庸で、愚鈍極まりない小生のところにそのような現象をお示しいただいても、「全くの無力」。どうしようもないのが現実である。
否、それでも、こうして繰り返し示される氷の聖像に、さすがに、「これは、見えざる世界では、われわれ人類にかなり危惧を抱いているのではないか?三角四面体マカバがの天地・自然・宇宙の森羅万象をコントロールせずにはおれないという非常事態が差し迫っている」とでもいうのであろうかと思わざるを得ない。
しかし、この現象を見て、小生には、皆目、見当がつかない。まして、本当にそのような意味でこのような現象が必要だというのであれば、何も小生のようなぼんくらな誰も注目もしていないもののところに現象を出すより、世界に多大な影響力を持つ有能な大指導者たちのところに出現してしかるべきであろうに・・・・・・。
そう思って、凡庸なる小生が誇大妄想に駆られて騒ぐことのほどもはないのだろうと自分に言い聞かせていた。
それでも、こうして現象が身近に頻繁に示されのは、何か訳があってのことであろうかと、自問せずにはおれず、いずれにしても自分のできることは戦争回避のためにひたすら修法するだけである。
修法といえば、真言の修法中、密教の法具である五鈷金剛杵から「潜象と現象は一体である天地の創造秘儀」が込められていることを感じ取ってから久しい。
五鈷杵は、単にインドの武器から密教の象徴的法具に転化したなどという単純なものではなく、
これは「潜象と現象の三角四面体が流動し回転している天地創造の回転する宇宙の創造の原理であり、その芯に、不生の仏心が全一なる宇宙の偏在性と多次元なる局所性の核心となって構成している正反マカバの三角四面体のはたらきを如実に示してる。」
これが五鈷杵の意味であると感受している。
修法しながら、(では、遍照金剛弘法大師空海祖師は一体どのような五鈷杵を手されておられたのだろうか?。)
ふと、そういう思いにかられ、調べてみると、弘法大師が請来された法具が東寺伝わり、国宝となっている。
その写真を見て、まさしく驚愕するのである!
(請来型五鈷杵)
弘法大師が宮中の真言院で修法なされて以来、今日まで続く「後七日御修法」という世界平和と安寧を祈祷する真言宗十八本山の長老猊下が修法される真言密教最高位の修法において、大導師が初めて手に取ることを許される密教法具であるので、この法具を手にできる阿闍梨は極めて希である。しかも、たとえ、何代にもわたって法統を受け継いできた真言の大阿闍梨といえども大師御請来の法具を手にできる機会は全くないのが現実である。
ところが、この大師請来の国宝の法具をよくよく観ていると、
まさしく、あの氷の三角四面体によって導かれたマカバの構造を余すことなく形状化しているものである!ことに気づいた。
もちろん、伝授されている真言密教が五鈷杵をこのように解釈しているわけではない。あくまで、小生私見に過ぎない。とはいえ、それこそ愚の骨頂だと嘲笑されるが、小生には五鈷杵とトーラスは同質のことを示していると直観する。
まず、弘法大師の請来された五股金剛杵を手にして大法を修することは、小生には、あと何億万回生まれ変わったとしても叶わないことである。
しかし、いま、世界は非常事態にある。というのに、ことほどさように小生自身は愚劣なるものではあり、自らこの祈祷を行えないし、たとえ、あと何百万回生まれ変わったとしても、愚鈍極まりなく、無能でしかないのである。そのようなものが、よくぞたいそうなことをしたり顔して口にできるものだと自分を恥じている。
数日前、こうした中、まんじりともせず、夜中を過ごし、早朝、暗いうちに、本堂を開けて、東の空を見ると、松の木葉の間に輝く細い三日月が掛かっていた、そのやや下方の東の空に明けの明星がキラキラと輝いていた。
それは凛として澄み切った空であった。
すると、ある思いに駆られた。
おお!なんと!おそばに遍照金剛空海弘法大師がおられるようだ!
しばらく廊下に佇んでいると
その存在のようなものがこう語りかけて来られたように思う。
「確かに、おまえは限りなく小さい。覚りもなく、無明の強欲の風にさらされ、愚か者のままである。まさにおまえが言うまでも無く無能極まりないのも事実だ。そして、まぎれもなく、おまえは、はかなく消え失せるものだ。」
(・・・・・・・仰せの通りです・・・・・・・・・・)と
しばらく黙っていた。
すると(それでも、こうして、いつも、おそばにいてくさっておられる・・・のだなあ)というありがたい気持ちに包まれている自分があった。
あの銀色に輝く細い月は五鈷杵、あの明星は大師であった。
今年の2月3日における節分護摩祈祷は、このような思いもあって、不肖ながら、大師請来型の五鈷杵を頂いて、遍照金剛弘法大師に願い出て、世界の安寧のご祈祷を潜象・現象含めてお導き賜るよう修法させていただくしかないと臨んだ。
この現象界は無明。その煩悩の雲を取り除けるのは神のみ。
にもかかわらず神の名のもとに戦争を起こす人間の浅ましさを悔い改めないかぎりいかなる神理も無明である。
彼らは神を見ず愚かな人間を見て相争う。
自己をあるがままにみる観法のみが、ブッダ親説本不生なる神と不生の仏心たる自心を如実に知ることができる。
そうして、小生に ある不思議な書物が、いま、ここに与えられた。
読み人知らずの『不可知の雲』。
死にふちにたつものへの最後の魂の救済の書なのかもしれない。 次回から これを基に神の心本不生を連載したい。祈りのために・・・・