忘却の雲・不可知の雲から学ぶもの

『不可知の雲』龍雲解その1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画:田邑 慶 

 

 

 

2022/02/19  14:00〜16:00 土曜法坐 龍雲

 

主題:観想の祈り
参考テキスト:『作者不詳 不可知の雲 』
奥田平八郎訳
The Clowde of Vnknowyng
現代思潮社』

 

はじめに

 

 今年は、作者不詳の不可知の雲をとりげたい。
理由は、小生にとっては、異なる宗教の書ではあるが、一連の不可思議なる事象と世界の不穏な動きに関連するかのように、突然、与えられた天恵の書であったからだが、その理由はよくわからない。
 もっと有り体に申し上げるならば、この異常な世情の危機に際して、なおも安閑としていたずらに時を過ごしている自身は、この世に生かされている時間もあとわずかであるというのに、本当に大切なものを何一つ見いだすこともなく、無為に去らざるを得ない自分自身への自嘲に近い悲しみがあった。
 確かに、自ら覚醒するに無力な自身であった。全て、至らない自分が勝手に借りてきた真理や教えに基づいて、何ら、自ら覚り得たものなど皆無である。あるのは、生かされ慈しまれた人生ではあったがて、何の気づきも無く愚鈍のままに、ただ、時に流され、去って行く自分である。
 これが正直なところですと、独り本堂に座し、見えざる本尊にただただお詫び申し上げるしかなかった。
 すると、どういうわけであろうか、『不可知の雲』という声が聞こえてきたような気がした。確か、手元に置いたままおいてあった古書の名だったような気がする。ようやく探し出して、ふと、手にしてみる。おお!その本の挿絵と、添えられたコトバに、目がとまり、ハッとせずにはおれなかった。まさに、これはいまの私自身の姿であると感じ、唯々、涙を禁じ得なかった。

 

 ブッダ親説から、人は「あらゆる自己欺瞞から離れ、自身が自身の光となること」が肝心であると学んだ。真実の中に偽りを見、偽りの中に真実を見、偽りを偽りとして、真実を真実として見ることの大切さを教わった。
 が、世界は相変わらず、自身も人々も地球自然も、混迷し、普通な絶望と苦悩にさいなまれている。
 人々がでっち上げた神ではない。不可知のおくに本不生として輝く神をひたすら、この心を向けて、あるがままの中に神がおわしますことを見よ!と言わんばかりであった。

 

 

 

もろもろの想いに攻撃されながらも、不可知の雲のほうへさしのべられた小さき魂の愛

 

嗚呼!まさに、この生涯、今の今までの自分自身のあるがままそのものであった。
暗闇に一条の光がもたらされるおもいでであった。

 

さらに、神のヒビキがもたらされる。

 

『不可知の雲』

 

不可知の雲 と呼ばれる観想の書がここに始まる。
その雲の中で、魂は神と合一する。

 

 

 そして、「祈り」が始まる。

 

 ここに序文に寄せる祈りが始まる。

 

 神よ、汝に対してあらゆる人の心が開かれ、あらゆる人の意志が語りかけ、いかなる私事も隠されることはありません。私が汝を完全に愛し、相応しく讃えることができるよう、聖寵のえも言われぬ賜物を以て私の意図を浄めて下さるよう懇願いたします。然あれかし。

 

神よ、あなたは、全てであるが故にあなたに対し、あらゆる人の心が開かれ、あらゆる人の意志が語りかけ、いかなる私事も隠されることなく清められますように。あらゆる人があなたの愛に完全に目覚め、そして、あなたがともにあることに気づきますように。あなたの限りない慈しみの愛の聖寵が全てのものを清め、調和と安寧をもたらすことに、気づきますように。あるがままに。あるがままに。気づけますように。

 

 

ここに序文が始まる。父と子と聖霊の御名によりて。

 

 さあ、はじめましょう。神(本不生)と子(金剛サッタ)と聖霊(わたしをはじめ宇宙法界一切の万生万物)加持力による魂のいとなみを

 

 この書を所有しているあなたがどなたであれ、私財として所有しているか、保管しているか、使者として所持しているか、または借用しているかの如何を問わず、左記の条件を満たしている人に対してでなければ、この書を読み、写し、語ることのないようにして下さい。またその条件を満たしている人でなければ、この書を読み、写し、語ることを許さないように、あなたの意志と思慮を以て十全の配慮をして下さい。このことを私は愛徳の義務が許す限りの力と勇気とを以て、あなたに命じかつ懇願します。そうした条件を満たす人とは、(あなたから見て)誠意と全面的な志向を以て、完全にクリストに従うものとなることを決意した人でなければなりません。それも活動生活 (慈善事業を行う人・・・・訳注)だけではなく、観想生活の最高段階においても、そうしたものとなることを決意した人でなければなりません。観想生活の最高段階は、完全な魂であれば、この死すべき肉体の中に宿っている間であっても、この現世において聖寵によって達することができるのです。またそれに加えて活動生活(諸徳に達する精神的訓練・・・訳注)の有益な手段によって、観想生活に対する準備に力を尽し、かつすでに久しく努力してきたものと、あなたに見なされる人でなければなりません。(1)そうした人でなければ、この書は相応しいものではありません。

 

 これは見えざる全一なる本不生の顕現であるすブッダ・キリスト・メタトロンにまっすぐに心を向けてこそ、分かちあえるもの。

 

 もし上記の条件に適う人が、この書を読み、写し、語り、あるいはこの書が読まれ、語られるのを聞く場合、あなたも私と同じく、彼らが充分時間をかけてこの書全体を読み、語り、写し、また聞くよう命じて下さい。私はこのことを、愛徳の権威にかけて重ねてあなたに命じ、懇願します。この書の中には、たまたま或る問題が、初頭や中間に置かれ、しかもその場でとぎれて充分表明されていない場合があります。もしその場で明示されていなければ、その直後に、または結末で明示されています。それゆえ、もし人が一つの問題点を見て、他の問題点を見ないならば、おそらく容易く誤解にたち至るでしょう。従って、あなた自身を含めたすべての人々のこうした誤謬を避けるために、愛徳を以て私の言うところに従って下さるようお願いします。

 

 欠かすことができないものは天真爛漫さと同時の探求心である。

 

 

 

 肉的な(「霊的な」の反対概念でパウロの用法・・・訳注)口論者、自己を公然と讃美する者、他人を公然とそしる者、新聞を 吹聴する者、噂の運び屋、またいかなる種類のあら捜しどもが、この書を読むことを私は決して 望みません。決してそのような者どものために書く意図はありません。それゆえ、私は、学者で あれ無学の徒であれ、詮索好きな人々が、この書にかかわり合うことを望まないのです(2) 。

 

 自己凝視を忘れて噂話に興じて無為にときを浪費していてはなりません

 

 

そうで す、彼らが活動生活を送るまことに善良な人々であろうとも、本書の問題は相応しくありません。 生活の外形においては活動生活にたずさわっていようとも、神の密かな霊に向かう内的運動にお いて――神の判断は隠れたものですが ――聖寵により定められている人々でなければ相応しくありません。(3) 真の観想者に相応しく継続的に、とはいかなくとも、折にふれてこの観想行為の最高 段階に参与する人々でなければなりません。もしそうした人々がこの書を目にすることがあれば、 神の聖寵によってこの書から大きな慰めを得るでしょう。 この書は七十五章に分かれています。全章中最後の章は、一つの魂が、この観想活動を行なう べく神に召出されているか否かを、実際に吟味することのできる、或る確実なしるしについて教 えています。

 

 この現象界で懸命に生きていくことは大事なことですが、自己凝視という観想生活を決して欠いてはなりません。

 

 

 神における霊の友よ、私は、あなたが御自分の召出しの過程と方法とを注意深く熟慮なさるよう祈り求めます。熱心に神に感謝しなさい、そうすればあなたは、肉体的および霊的な敵の巧妙なあらゆる攻撃に対抗して、熱意を以て意図した生活状態、様式および形式の中に、神の聖寵の 助力によって確固として留まることができます。そして永久に存続する生命の冠を勝ち得ることができます。然あれかし。

 

 あなたが神の恩寵の賜であることに気づきなさい。あるがままに気づきなさい。

 

 

 

                        ここに第一章が始まる

 

 

 神における霊の友よ、あなたは私が、思慮未熟ながら(1)、クリスト教徒的生活について四段階、四形式を認めることを理解なさるでしょう。これらはすなわち普通、特殊、独特、完全です。そのうちの三つはこの世の生活の中で始められ、また終結します。第四のものは、聖寵によりこの世で始められますが、しかし永久に終わることなく、天国の至福の中で継続するものです。それらがまず普通、次に特殊、さらに独特、そして最後に完全と、逐次順序よくここに並べられているのがおわかりになるでしょう。それとまさしく一致して、同じ順序、同じ過程に従ってわれらの主は、広大な御慈悲を以て、あなたを召出し給い、あなたの心の欲求に応じて主のほうへ導き給うたのであると思われます(2)。
 よく御存知のように、あなたが御自分の世俗的友人たちとの交わりの中に在って、クリスト教徒的生活における普通段階の生活を送っていた時も、クリストの神性から発する永遠の愛は、神からさほど離れた生活形態および段階にあなたを放置する能わざるものであったかと思われるのです。その愛によって神は存在しなかったあなたを造形し形成し給い、そしてその後、あなたがアダムにおいて滅びた時も、神の貴い御血の代償を以てあなたを贖い給うたのです。かくして神はまことに恵み深くも、あなたの欲求に火を点し、それに憧憬の絆を結び、またそれによってあなたを一段と特別な生活状態と形式とに導き、神の特別な召使の仲間に加えようとし給うたのです。その特殊生活においては、あなたは、以前に普通段階の生活において行なったより以上に、ことさら霊的に神への奉仕に生きることを学び得るでしょう。そしてまた、それ以上のいかなる生活があり得ましょうか。しかし神は御心の愛ゆえにあなたをその状態のうちに放置することを望み給わなかったと思われます。神は、あなたが幾らか価値あるものとなって以来、絶えずあなたに対して愛をもち続けておられたのです。神は何をなし給うたのでしょう。神が如何に快く、また恵み深くも、あなたを独特と呼ばれる第三の生活段階および様式に引き寄せて下さったか、おわかりになりませんか。その孤独な生活形式および様式において(3)、あなたは御自分の愛の足を挙げ(4)、完全にして最終の状態たるあの生活様式および段階に向かって踏み出すことを学び得るのです。

あなたが神の恩寵の賜であることに気づきなさい。あるがままに気づきなさい。

 

 

 

                        ここに第二章が始まる

 

 弱く惨めな者よ、今や目を挙げ、自分が何者であるかを見なさい。このようにわれらの主に召出されるとは、あなたは何者であり、どのような価値があったのでしょうか。この愛の誘いと召出しの声で目覚めない心があるとすれば、それは何と倦怠に満ちた惨めな心であり、何と惰眠をむさぼる心なのでしょう。惨めな者よ、今この時こそ、あなたの敵に警戒しなさい。そしてこの召出しの尊さと、あなたが送っている独特の生活形式のゆえに、御自分が一段と聖となり、善となっているなどと夢にも思ってはなりません。そうではなくて、あなたに与えられた使命に従って生きるため、神の聖寵と霊的指導者の助言とによって御自分に相応しい方法を用いて力を尽さなければ、独特であるだけに一層惨めで、呪われるのです。当然のことながら、あなたの霊的配偶者に対して謙遜であり、また愛を多く持っていればいるほど、それに応じて全能の神、王者の中の王者、君主の中の君主たる御者は、あなたに対して一層御自身を低められ、そのすべての羊の群れの中からまことに恵み深くもあなたをお選びになり、神の特別の親友の仲間にお加えになるのです。そうなれば、あなたは天の王国という相続財産を試食する形で神の愛の美食を以て接われるのです。
 それゆえ、どうか熱心に継続して行ないなさい。前を望み見なさい、そして後を振返ってはなりません。あなたが所有しているものではなくて、あなたに欠けているものを見なさい。それが謙遜を最も速やかに獲得し、保持する方法であるからです。もしあなたが進歩して完全段階に達すれば、その時あなたの全生活は止むことのない欲求と願望の状態に入ることが必要となります。この欲求と願望とは、全能の神の御手とあなたの同意によって絶えずあなたの意志の内にもたらされることが必要です。しかし一つのことを私はあなたに申し上げましょう。神は嫉妬深い恋人であり、あなたに他人との交友をお許しになりません。神は御自身独りがあなたとともに在るのでなければ、あなたの意志の中に働きかけようとはお望みになりません。神はあなたが他に助けを求めることを要求なさいません。あなたが神を仰ぎ見て、神のみを容れることを望み給うのです。(愚考の)ハエ(4)と(不浄の敵)(5)に対して窓と戸を閉ざしておきなさい。もしあなたがこのことを快く行ないさえすれば、後は祈りと謙遜を用いて神を攻め落としさえすればよいのです。ですから攻撃しなさい。あなたがどのように振舞うか見せてさしあげなさい。神は用意怠りなくあなたを待機しておられます。しかしあなたは何を行ない、また如何にして攻撃にとりかかるべきでしょうか。

 

 

 観想の自己凝視によって、あなたに刻々と流れ込んでいる神とともにありなさい。

 

 

 

                                      ここに第三章が始まる

 

 愛の謙遜な運動を以て、心を神に向けて高めなさい。神の賜物にではなく、神御自身に心を向けなさい。かつ、神御自身以外の何物にも想いを致すことに気乗りしなくなるように注意しなさい。あなたの理性の中にも意志の中にも、ただ神御自身以外の何者も働かないようにしなさい。いままで神が造り給うたあらゆる被造物とそれらの働きとを忘れるよう力を尽しなさい。一般的にせよ特殊的にせよ、あなたの思惟と欲求がそうしたものに向けられ、また及ぶことがないように。それらにかかわり合うことなく、またそれらに心をわずらわさないようにしなさい。これが神を最も喜ばす魂の活動なのです。聖人や天使も皆この活動を喜び、全力を挙げて助けようと馳せ参じます。あなたがこのように行なう時、悪魔は皆狂おしく怒り、あらん限りの力を尽してその活動を破壊しようとやっきになります。煉獄の魂は、この活動の功徳によって、責苦を和らげられます。あなた自身も浄められ、また他のいかなる働きによっても、これほど多く徳を高められることはありません。しかもその活動は、魂が聖寵の助力を感知する喜びに変ずれば、あらゆる働きのうち最も容易な活動となり、まことに速やかに行なわれるでしょう。さもなくば(4)、行なうことはあなたにとって辛く困難なのです。それゆえ思い止まることなく、喜びを感ずるようになるまで、労苦してその活動を行ないなさい。最初に行なう時には、ただ闇を感ずるのみです。それはあたかも不可知の雲であるかのごく意志のうちに神に向かう露わな志向を感ずる以外に、あなたは決してその本体を理解し得ないからです。この間、この雲は如何に努力しようとも、あなたと神との間に介在し、あなたが理性により、知解の光を以て神を明確に見るとともできず、また感性により、愛の甘美さのうちに神を感ずることもできない状態にあなたを引き留めておきます。それゆえあなたが愛している御者を求めて絶えず泣き叫びながら、できるだけ長い間この闇の中に留まるように意図しなさい。たとえあなたがこの世で能う限り、神を感じ神を見ることがあるにせよ、常にこの雲、この闇の中に在ることが必要なのです。もし私が命ずるままに、一心に労苦したいとお望みならば、神の慈悲によってあなたがそこに到達されんことを私は確信しております。

 

 

 いまここに、あなたのあるがままの現実を直視しなさい。恐怖・苦悩・悲嘆・絶望・自己欺瞞・自我我欲・傲慢・卑屈・虚偽これらの混乱の責め苦が如何にあなたに襲いかかっていても、その事実をのあるがままに直視しなさい。決して、経験や思弁や感情によって自己逃避に走り、自己を欺くことのないように。如何に厳しく辛くとも、あるがままの事実から目を背けてはなりません。なぜなら、直視は決して壊されることのない神の心が働いているからです。自己が澄み切って、神の心そのものであるとき、あなたは神とともにこの現実のあるがままの世界にあって神とともに独り立つのです。あるがままの自己凝視、すなわちす観想の目は神の御眼にほかならない。

 

 

 

                                     ここに第四章が始まる

 

 あなたがこの観想活動を行なうさい、誤りをおかし、また事実と異なるふうに想像することがないように、私の思うところに従って、いま少しあなたに語りましょう。この活動はひとたび正しく行なわれさえすれば、長い時間を要しません。それは人間がいやしくも想像し得るあらゆる働きのうちで最も短い活動なのです。それは原子(アトム)より長くも短くもありません。アトムとは真正な天文学者たちの定義によれば、時間の最小部分です。それは非常に小さいので、この微小性のゆえに分割不可能であり、ほとんど理解を絶しています。観想活動に関して述べられる時間とは、このアトムなのです。与えられた時間をすべて如何に使ったかとあなたは問われるでしょう。あなたがそれを説明することは道理に適ったことです。その時間は、魂の主要な機能たる意志のうちに存在する一箇の衝動と厳密に相応し、それより長くも短くもありません。一時間中にアトムが存在するのとちょうど同じ数の――それより多くも少なくもない数の――欲求あるいは願望が、あなたの意志の中に存在し得るのですし、また事実存在しています。もしあなたの魂が仮に聖寵によって、罪以前の人間の魂のはじめの状態に戻されるならば、その場合にはあなたは聖寵の助力によって常時あの一回または数回の衝動の支配者となるでしょう。従って何事も無為に過してはならず、すべての事柄が神という至高に願わしく最高に望ましい存在にまで及ぶべきです。神はその神性を(人間の魂に)均衡のとれたものとなし給い、しかして神性はわれわれの魂に一致調和するものとなります。また、われわれが神の形象、神の似姿に創られたという相応しい価値によって、われわれの魂は神に一致調和するものとなります。神は他のもの無くして神御自身で、しかも神のみが、完全に充足しておられ、さらに満ちあふれておられるがゆえに、われわれの魂の意志と願望とを充分に満たし給うのです。魂を初元の状態にもどす聖寵の功徳により、われわれの魂は、神を全面的に愛によって理解することができるまでに充分満ちたものとなるのです。もっとも、神は天使および人間の魂などのあらゆる被造物の知的機能によっては理解し難いものなのです。(愛によらずして、知的機能によっては理解し難い、という意味です。それゆえ私は彼らをこの場合知的機能と呼ぶのですが。)そのうえ、すべての理性的被造物は、天使も人間も、各々独自にその中に知的機能と呼ばれる一つの主要な働きを行なう能力と、愛する力と呼ばれるいま一つの主要な働きを行なう能力とを持っています。その二つの能力の中で、第一のもの、知的機能にとっては、その創り主たる神は永遠に理解し難く、第二のもの、愛する力にとっては、神は各人各様に充分理解されます。その結果、愛する魂は愛の功徳によって、本性として自己の内に神を理解するに至るのです。神は充分に充足しておられ――充足以上であり、比較を絶しておられ――存在する限りのすべての人の魂と天使とを満たし給うのです。これが愛の永遠性の驚嘆すべき奇蹟であり、決して終わることはありません。神は永久に満たし続け、決して止め給うことはないでしょう。聖寵によって観ることのできるものは観るが宜しい。こうした感覚は永遠の至福なのですから。この逆は永久の苦痛です。
 それゆえ聖寵により初元の状態に戻され、意志の運動を継続的に保持するようになった人は――その人は本性としてこの運動を持たないことはあり得ないのですが――この世の生活においても、かの尽きることのない美食の幾分かを必ず味わうこととなりましょう。かつ天国の至福においては食事全部に必ず与ることになりましょう。ですから、私があなたにこの観想活動を勧めるとしても訝かるにあたりません。この活動は、後でお聞かせするように、もし人間が決して罪を犯さなかったならば引き続き行なっていたはずの活動であり、またその活動を目的として人間が創られたのです。万物も人間を助け促すために造られたのです。そして観想活動によって人間は再び本来の在るべき状態に戻るのです。この活動が欠けていると、人間はますます深く罪の中に落ち込み、神から遠ざかります。他のいかなる働きでもなく、ただこの活動を保ち継続することによってのみ、人間は罪から離れ、絶えず高く挙げられ、ますます神に近づくのです。
 それゆえあなたが如何に時間を使うか、その使い方に注意しなさい。何物も時間に優る貴重なものはないからです。一単位の短い時間のうちに、それが如何に短くとも、天国が得られることもあり、失われることもあります。それは時間が貴重なものであるという証拠なのです。時間の与え主たる神は、決して二つの時間を同時に与えることなく、各時間を他の時間の後に、一つずつ順次に与え給うからです。神がこのようになし給うのは、神の創造の御業に則して、秩序ある いは規則的層序を逆転しようと欲し給わないからです。なぜなら、時間が人間のために造られたのであり、人間が時間のために造られたのではないからです。神は自然の支配者ですから、時間をお与えになる時、人間の魂の本性の運動に先回りすることをお望みになりません。人間の心の巡動は一度に一つの時間単位にのみ厳密に対応するからです。従って人間は最後の審判の折、神に対して弁明の言葉を持たないでしょう。時間の使い方を説明するにあたり「私は一度に一つの心の運動しか持ちませんのに、神よ、あなたは一度に二つの時間をお与えになります」と言って釈明することはできないでしょう。
 しかしこれを聞いて、今やあなたは落胆し、悲しげにおっしゃるでしょう。「私はどうしたら よいのだろう。あなたのおっしゃることはみな真実です。私はどのようにして個々の時間をそれぞれ説明したらよいのだろう。私はいま二四歳になりますが、今日に至るまで時間に注意を払ったことなど全くありませんでした。あなたのおっしゃる言葉が真実だからといって、私がいままでの行ないを改めようとしても、未来の時間以外のいかなる時間をも守り改めることは、自然の成り行きに従っても、普通の聖寵によってもできることではありません。そうです、さらにそのうえ、この私の甚だしい弱さと精神の鈍さでは、来たるべき未来の時間にしても、百のうち一つさえも、守ろうにも守り得ないことを自分の経験からよく知っております。ですから、私はこうした理由で非常に困惑しております。イエスに対する愛のため、お願いです、私を助けて下さい」
 「イエスに対する愛のため」とは、よくぞおっしゃいました。イエスに対する愛のうちに、あなたに差しのべられる助けが在るのです。愛はすべてのものを一つに結ぶことができる強い力なのです。イエスを愛しなさい。イエスのものはすべてあなたのものとなるのです。イエスはその神性において時間の造り主であり、時間の与え主です。イエスはその人性において、時間の守り手なのです。そしてイエスは神性と人性の両方において、真の審判者であり、時間の使い方の釈明を審問なさる御者なのです。それゆえ、愛と信仰によってイエスと密接に結ばれなさい。その結合の功徳によって、あなたは、イエスおよび同じく愛によってイエスに結ばれたすべての人々に参与する者となるでしょう。例を挙げれば、時間を守ることにおいては、すべての聖寵に満ちておられたわれらの聖母マリア、決して時間を浪費することのあり得ない天国の全天使、およびイエスの聖寵により愛の功徳を以て時間を全く正確に守る天国と地上の全聖人です。
 御覧なさい。ここに慰めが在ります。明確に意味を解し、幾分でも有益な意味を汲み取りなさい。しかしあらゆることの中で、一つだけ私はあなたに注意しましょう。時間を守るさい、聖寵はあの助力によって己れの力を尽す人でなければ、一体誰が、イエス、正義の母マリア、崇高な天使および聖人との交わりを、かくも明らかに主張し得るものでしょうか。従ってそのような人は、僅かながらも己れの分に応じて友交に益する人と見られます。各人が相互に益し合うのです。
 ですから、この観想活動と、あなたの魂の内部に働きかけるその活動の驚嘆すべき作用形式とに注意を払いなさい。もしそれが正しく理解されるならば、それは全く突発的な運動であり、熱した石炭から散る火花のように、いわば予期し難い、神への急速な跳躍であることがわかりましょう。この活動を行なう準備が整っている魂の中に、一時間の間にもたらされる運動の数を算えれば、驚くほど多数なものです。しかも、これらすべての運動の中のただ一箇の運動において、 人は突然、また完全に、あらゆる被造物を忘却し得るのです。しかしその一箇の運動が終わるや否や、肉の腐敗のために、何らかの完了した行為または未完の行為のほうへ落下するのです。しかしそれがどうしたというのでしょう。その後直ちにその運動は前と同じく突然上昇するからです。
 ここで人はこの働きの作用形式を直ちに理解します。そしてそれが、いかなる幻惑、虚偽の想像あるいは空想的な思いつきとも遠く異なるものであることを明瞭に知ることができます。そのようなものは、かくも敬虔で謙遜な愛の盲目的運動によるのではなく、傲慢で鋭敏な想像的知力によってもたらされるのです。もしこの観想活動が真に精神の純粋性においてのみ理解されるものであるならば、あのように傲慢にして鋭敏な知力は常に圧服され、しっかりと足下に踏みしかれる必要があります。
 この書の教えが読まれ語られるのを聞き、その教える活動が、知的諸能力の努力により達せられ得るものと考える人々は、危険なまでに誤っています。(それゆえ、彼らはそれが如何なるものであるかを座して知力に求め、その知的綿密性のゆえに、たまたま自然の秩序に背き、彼らの想像力を努め働かせます。そして肉体的とも霊的とも言えない一種の働きを捏造します。その結果、もし神が大いなる善により、慈悲深い奇蹟を示し、直ちにその働きを停止させ、経験を積んだ観想活動者の助言に彼らを謙遜に従わせ給うことがなければ、彼らは奔放な愚行か、さもなくば他の霊的罪や悪魔の欺き等の非常に悪しき状態に陥るでしょう。そのため彼らは生命も魂もみすみす永久に失うこととなるかもしれません。ですから、神への愛のために、この活動にあたっては、知力や想像力を働かせようと努めるととのないよう注意しなければなりません。私は真実あなたに申し上げますが、この観想活動はそのようなものを働かせようと労苦したところで達し得るものではありません。それゆえ、そうしたものから離れ、それらを用いて働くことを止めなさい。
 私がその状態を闇あるいは雲と呼ぶからといって、それが空中を飛び、蒸気が凝結してできた雲であるとか、あるいは蝋燭が消えた時、夜ごとあなたの家の中に生ずる闇であると、考えてはなりません。そのような闇や雲ならば夏の最も明るい日中にも眼前に生み出そうとさえすれば、感覚の鋭敏性によって想像することができます。また逆に冬の最も暗い夜でも、あなたは明るく輝く光を想像することができます。そのような虚像に関与してはなりません。私はそうしたものを意味しているのではありません。私は知的理解力の欠如の状態を意味しているのです。あなたが知らないもの、または忘れてしまったもののごとく、それはあなたにとって暗いのです。あなたがそれを霊の眼を以て見ないからです。こうした理由で、それは空の雲と呼ばれるのではなく、あなたと神の間に介在する、不可知の雲と呼ばれるのです。

 

観想活動は常に、いま、ここです。なぜなら神の愛すなわち本不生の創造活動は常に、いま、ここだからです。いつかではなく、どこかではなく、いま、ここです。観想活動は即時の気づきです。時空を超えた神に愛なるがゆえに気づきはいま、ここに起こります。間違えてはならないことは、観想は思考や概念の枠を超えた即時の理解にあり、あるがままの刻々の自己観察にほかなりません。しかも、見るものと見られるものの分離があるところには即時の理解は起こらない。               

 

 

                                 ここに第五章が始まる

 

 もしあなたがこの雲に達し、私が命ずるようにその中に留まり活動するならば、この不可知の 雲は、あなたと神の間にあり、またあなたの上に在ります。それと対応して、あなたといままで 創造されたすべての被造物の間に、またあなたの下に、忘却の雲を置くことが必要です。この不可知の雲があなたと神の間に在るがゆえに、ことによれば、御自分が神から非常に遠く離れてい ると思われることがあるかも知れません。しかし充分考えられることですが、あなたと、いまま で創造されたすべての被造物の間に忘却の雲を置かない時のほうが、あなたははるかに神から遠 く離れているのです。私が「いままで創造されたすべての被造物」というたびごとに、私は常に 被造物自体のみならず、その同一被造物のすべての働き、および状態をも意味しているのです。 私はそれらが肉的被造物であるか霊的被造物であるかの如何を問わず、ただ一つの被造物をも例外としません。さらにそれらが善悪いずれであれ、いかなる被造物のいかなる状態をも働きをも例外としません。手短に言えば、この場合すべてのものが忘却の雲の下に隠されるべきです。あ る特定の被造物の一定の状態あるいは行為に思いを致すことは有益でもありますが、しかしこの 観想活動においては、そうしたことはほとんど、いや全く無益であります(3)。なぜなら、神がいま まで造り給うたあらゆる被造物またはそれらの行為を思い考えることは、一種の霊的な光である からです。弓術家の眼が射んとする的に定められるごとく、あなたの魂の眼はそれらに向かって 開かれ、それらの上にぴたりと定められるからです。一つのことを私はあなたに申し上げましょ う。あなたが思い廻らす対象はすべて、その間あなたの上に在り、あなたと神との間に在るとい うことです。神以外の何ものかがあなたの精神の中に在る限り、それだけあなたは神から遠く離 れているのです。
 そうです、もしかく言うことが礼儀に適い、品の良いことであるならば、神の慈愛、神の尊厳 について考えることも、あるいはわれらの聖母、天国の諸聖人や天使、否、天国の喜びについて 考えることも、この観想活動においてはほとんど、いや、全く無益であるのです。すなわち、あ なたがそれらについて思い巡らし、彼らを仰ぎ見ることによって、御自分の意図を養い増加したいとお望みになるため、そのような特別な注視を以て右のものを想うことも無益なのです。この 場合この活動においては、決してかくあるべきではないと私は信じます。たとえ神の慈愛につい て考え、神の慈悲の御業のゆえに神を愛し、神を賛美することが如何に善い行ないであろうとも、 神の露わな本性について思考し、神御自身を目的として神を愛し、神を讃美するほうがはるかに善 い行ないなのですから。

 

現象界は局所化により三次元に条件付けられた世界ですが、神すなわち本不生は条件付けられないものです。その条件付けられないものから、この物質界に刻々に顕現させるもの、それは、遍在性と局所性の刻々の互換重合しなわち神愛にほかなりません。
 本不生空よりダークエネルギー・ダークマター・現象界へと局所化する全ての現象化の中心に神愛が貫かれています。この正反互換重合するダイナミックな天地創造の回転軸こそが神愛なのです。それ故、この神愛無しには天地創造は起こりません。宇宙も、あなたも、存在しないのです。しかし、その中心である神愛は「空」です。なぜなら、神は不可測の本不生ですから、局所化されたあなたが見ることはできない。すなわち見えざるもの不可知のもの、即ち「不可知の雲」なのです。ところが、この局所化されたあなたが、この現象界である物質界に執着するやいなや、この中心軸に、こともあろうに、条件図けられるた自我を中心に据え、あたかも世界の中心はこの自分にほかならないと錯覚し、自ら閉じ込められた世界のなかであらゆるものをつなぎ止めようと躍起になり、そうしたもの同士がこの世界で骨肉の争いを巻き起こし、互いに互いを食い潰すことになります。この自我固着の雲が光りである神の心を覆い隠すのです。忘却の雲とはこの条件付けられた現象世界の実相をあらわし、局所化された世界から跳躍するには自己滅却が必要となると言うことですが、自己滅却とは、しかしながら局所化されたいのちを殺すことではなく、局所化された世界や自己の器は、本不生すなわち神の愛を刻々にあたえられているさなか、あるがままの観察する観想活動が、真の心を純真無垢にする唯一のものであり、忘却の雲とはこうした条件付けられた雲に気づくことによって、執着から離れると言うことにほかならないのある。

 

 瞑想は常に新たである。それは何の連続性も持たず、それゆえ過去は瞑想のうえに何の影も投じない。<新しい>という言葉は、いまだかつてなかったような清新な息吹きを伝えない。それは消されたあと再び点されるろうそくの光のようなものである。ろうそくは同じでも、新しい光は前の ものと同じではない。瞑想に持続性を与えようとするのは思考であり、それは瞑想を色づけ、こねあげ、それに目的を与えようと努めるのである。思考によって与えられた瞑想の目的と意味とは時 間の束縛の中に陥ってしまう。しかし思考によって触れられていない瞑想は、時間を超越したそれ自体の運動を展開する。時間とは古いものから新しいものに、昨日を根として明日へと流れる一連 の運動である。しかし瞑想の開花はそれとは全く異質である。それは昨日の経験から生まれたものではなく、それゆえ何ら時間に根ざしていない。その連続性は時間の枠の外にある。しかし瞑想について連続性という言葉を使うのは誤解を招く。なぜならすでに過去のものである昨日は、決して今日は起こらないからである。今日の瞑想は新たな覚醒であり、善性の美が新たに開花することである。K

 

 

                             ここに第六章が始まる

 

 さてあなたは、次のようにお思いになるでしょう。
 「どのようにして私は神御自身について思考したらよいのでしょうか。また神の本性とは何ですか。」
 私は左記のごとく答える以外に術がありません―「私は決して知りません」と。
 あなたの御質問は私をほかならぬあの聖暗の中へ、そしてあなた御自身にも入っていただきたく思っておりますほかならぬあの不可知の雲の中へ引き入れてしまったのです。他のあらゆる被造物とそれらの働きについて――そうです、さらに神御自身の御業についても人は聖寵によって完全に理解し、また充分に思考することができます。しかし神御自身については、いかなる人の思考も及ばないのです。ですから、私は思考し得るすべてのものから離れ、私の思考の及ばないものを自分の愛に委ねたいと望むのです。なぜなら、神は愛される御者であり、思惟さるべき御者ではないからです。神は愛によって獲得され、把握されますが、思惟によっては不可能です。それゆえ、特に神の慈愛と尊厳について考えることは、時には善き行ないであり、またそれは観想の光でもあり一部でもありますが、しかしこの観想活動においては、それは放棄され、忘却の雲で覆われるべきです。あなたは敬虔にして快い愛の運動を以て、堅実に、しかも熱心に憧れながら、一歩一歩登り、あなたのうえに在るあの聖暗を貫くよう努力すべきです。そして憧れる愛の鋭い矢を以て、あの不可知の厚い雲を射るべきです。何事が起ころうとも、そこから離れてはなりません。

 

 神とは何か。不可知のものである。ゆえに、思考や概念やことばでは表し得ない。
 しかるに、神は全てであり、常にわれわれとともにある。あの慈しみ深き母の愛の如く、汝の生滅を超えて、常に汝と倶にありて、汝の成長を慈しみ給う。汝はあるがままの自己凝視を通してその愛に気づくであろう。汝をこの現象界に生み出したる神を知るには、観想の自己凝視にほかならない。なぜなら、自己凝視こそかみのあいにほかならないからである。

 

 

 

                          ここに第七章が始まる

 

 もしある想いが起こり、あなたとかの聖暗の間に介在し、常に上から圧迫し「次は何を求めるか、また何を所有せんとするか?」と尋ねるならば、あなたは「自分が所有したいものは神である」と答えなさい。「私は神を所有したいと熱望し、神を求め、神以外の何者をでもない」と。もしこの想いが神とは何であるかと尋ねるならば、それは、あなたをお造りになり、贖い給い、そして聖寵によってあなたを神に対する愛へと呼び寄せ給うたほかならぬ神である、と言いなさい。そして神に関する知識を持たぬ、と言いなさい。
 それゆえ、想いに対して「汝、再び降りよ」と命じなさい。たとえ、その想いがあなたに全く聖なるものと思われ、神を求める手助けをしようとしていると思われても、愛の運動を以てそれを力強く足下に踏みつけなさい。時折彼はあなたの心にその好意の様々な美しく不可思議な点を思い起こさせ、自分はまことに甘美で愛すべきものであり、恩恵と慈悲に溢れているというでしょう。たとえあなたが彼の言葉に耳を傾けようとも、彼はもはやより善きものを熱望することはありません。最後には、彼はこのように絶え間なく喋りつづけ、遂にあなたをクリストの御受難についての想いにまで引き下ろすでしょう。そしてそこで、神の不可思議な慈愛をあなたに見せるでしょう。あなたが彼の言葉に耳を傾けても、彼はもはやこれ以上善きものを求めはしません。その言葉が終わるか終わらないうちに、彼はあなたに昔の惨めな生活を見せつけ、その後も折にふれてそれを見せ、それについて考えさせ、あなたが以前住んでいた場所を心に思い起こさせましょう。あなたは御自分でも何処ともわからぬ所に吹き散らされてしまうこととなります。こうした消散の原因は、もとはといえば、あなたがまず自ら好んで彼の言葉に耳を傾け、応答し、受け容れ、そして放置しておいたからにほかなりません。
 しかし、それにしても彼が言ったことは善でもあり聖でもありました。そうです、まことに聖なるものでしたので、前もって自己の惨めさ、神の御受難、慈愛、大いなる善性および尊厳についての甘美な黙想なくして観想に立ち至ろうとする人は、男女を問わず、必ず誤り、目的を失することになります。それにしても、こうした黙想に長い間親しんだ男女が、いやしくも人と神との間に介在する不可知の雲を貫かんとするならば、絶えずそれらの想いから離れ、それらを忘却の雲のはるか下方に置いておくことが相応しいのです。 
 それゆえ、あなたがこの活動を行なうことを意図し、また聖寵により神に召出されていると感ずる時は、常に愛の謙遜な運動を以て心を神に向けて高めなさい。あなたを造り、贖い、聖寵によりこの活動へ召出し給うた神に心を向けなさい。神についての他のいかなる想いも受け容れてはなりません。これらすべてを差しおいて、御自分の好むところに心を向けなさい。神御自身以外に、いかなる他の目的も必要ではなく、露わな志向が神に向けられるのみで充分なのです。

 

 不可知のものを多く語るものには気をつけなさい。それが如何に愛に満ち光に満ち救いに満ちた神を語り、感銘深いものであろうとも、かれらの教えによってあなたは神を見ることはできないのです。むしろ、それらは、あなたが直接神に触れることの妨げとなるものです。どのように最もらしく真実のもので棄てがたいものであっても、それを棄てなさい。どのように美事なものであろうとも語られたもの、画かれたもの、刻まれたもの、演じられてたものは真実ではない。虚妄に過ぎない。それらに依存してしまえば自己欺瞞に陥るのです。あなたは、観想の目を以て、常に、絶えずあるがままの事実を直視する探求によって、真実の中に偽りを見、偽りの中に真実を見、偽りを偽りと見、真実を真実として見る。この観想の探求真意こそ、決してとらえられるものではない不可知の愛に、あなた自身が直に触れることができるのです。

 

そして、もしお望みなら、この志向を一語の中に折り込み、包んでおきなさい。あなたはむしろその語をしっかり保持するのが宜しいのであり、単音節の小さな一語のみを受け取りなさい。その場合、それは二音節の語よりも良く、短ければ短いほど霊的な活動に一層よく適合するからです。そのような一語とは、ほかならぬ「神」という語、または「愛」という語なのです。二語のうち、あなたが望むいずれか一方を選びなさい。あるいはお好みならいま一方を選んでも宜しい。そして何事が起ころうとも離れないように、その語をあなたの心にしっかり結びつけておきなさい。平和のうちにあれ、戦いの駒を進める時であれ、この語があなたの楯となり槍となるべきです。この語を以てあなたは上に在るこの雲と闇を打つべきです。この語を以てあなたは忘却の雲の下にあるあらゆる種類の想いを打ち滅ぼすべきです。もし時折何らかの想いがあなたに攻め寄せて、あなたに何を所有したいかと尋ねるならば、多くの語を用いることなく、ただこの一語のみを以て答えなさい。もし思惟がその偉大なる博識を以てあなたにその語を解説し、その語の諸条件を教えようと申し出る場合には、あなたはそれを全体的完全性において所有したいのであり、断片的、解釈的に所有したいのではない、と答えなさい。もしあなたがこの決意を確固として維持するならば、想いは一刻も留まることはないものと確信して宜しい。なぜでしょうか。それは、想いが先に言及したどとき甘美な黙想を糧とすることを、あなたが許さないからです。

 

この人生のあるがままの中で刻々に観想活動を行うには、あらゆる思念や概念や想念の雲の中に留まっていてはならない。どんな栄光も神の実光を目撃した感動も、記憶の中に留め置くならば、それは、単なる過ぎ去ってしまったもの、すなわち経験や概念、記憶や思い出に留まる死物でしかないのです。神の愛はつねに、いま、ここ、つねに新たななのです。ですから、その愛を留めておくことは適わないのです。刻々に、神とともにありますように。

 

次回へ続く


不可知の雲龍雲解 その2

ここに第八章が始まる

 

 さて、あなたは、お尋ねになるでしょう。「かくも私に感銘を与え、観想活動に向けて私を促す想いとは一体何者なのでしょう。」そしてそれは善でしょうか、悪でしょうか。これに対してあなたは続けます。「では、もし悪ならば、彼が一人の人間の敬神の念をそれほどまでに増すことに驚かざるを得ません。時折彼の話に耳を傾けることが、私にはこよなき慰めと思われます。時にはクリストの御受難を憐れむがゆえに、また時には自分の惨めさのゆえに、またさらに聖なるものであり、私に大きな善をなしたと思われる他の多くの理由により、彼は、私に心からなる涙を流させるように思われます。ですから彼は決して悪であるとは考えられません。もし彼が善であり、彼の甘美な話が私に対してあのように大きな善をなすならば、あなたはなぜ私に彼を引き下ろし、忘却の雲のはるか彼方に取り去るよう命ずるのか非常に疑問に思われます。」
 さて、これは確かに当を得た質問と思われます。それゆえ、私は無力ながらも、それにお答えしようと思います。まず第一に、あなたに感銘を与え、この活動を行なうよう熱心に促し、この心に促し、この活動にあたってあなたを助けようと申し出るのは何者ですか、とあなたが問うならば、私は、それはあなたの魂の内部にある理性の中に印象づけられた、あなたの人間的理性の鋭く明るい視力である、と答えます。そして、それが源であるか悪であるかと問うならば、それは神の似姿の光線であるがゆえに、その本性においては常に善なるものである、と答えます。しかしその効用は善でも悪でもあり得るのです。それがあなたの惨めさ、神の御受難、慈愛、および肉的、霊的被造物に働く神の不可思議な御業を見るため聖籠によって開眼している時にはそれは善です。この場合それが、あなたのおっしゃるように、あなたの敬神の念を増加させても不思議ではありません。しかしそれがり傲慢、学識の過度の綿密性、学者にみられる博識で一杯になり、しかも神学あるいは神を敬う謙遜な学者や教師ではなく、悪魔の傲慢な学者、虚栄と虚偽の教師と見なされるよう人々を駆り立てる時には、その効用は悪です。それが世俗的なものの礼拝、富の所有、空しい快楽、他人への追従をむさぼることにおいて、世俗的な事柄に関する傲慢にして過度に綿密な知識と肉的意相でふくれあがっている時は、この人間理性の効用と作用は、男性であれ女性であれ、また修道者、世俗人のいずれかを問わず、悪であるのです。
 それはその本性においては善であり、かつ、それがよく用いられる場合は、あなたに多くの善をなし、あなたの敬神の念を大いに増加します。従って、なぜそれを忘却の雲の下に引きおろしておくべきであるかとお尋ねならば、私は次のように答えます。あなたは、聖なる教会には二種類の生活があることをよく理解すべきです。一つは活動生活であり、いま一つは観想生活です。活動生活はより低く、観想生活はより高いものです。また、活動生活には高いものと低いものとの二段階があります。同様に、観想生活にも、低いものと高いものとの二段階があります。これら二つの生活は密接に結び合わされているので、それら二つはある部分においては異なっていますが、どちらもいま一方の部分なくしては完全ではありません。なぜなら、活動生活のより高い部分は、ほかでもなく、観想生活のより低い部分にあたるからです。それゆえ、人は部分的に観想的であることなくしては、完全に活動的ではあり得ません。また(当面の場合のように)人は部分的に活動的であることなくしては、完全に観想的ではあり得ません。活動生活の条件とは、この世の生活において始まり、また終わる性質のものです。しかし観想生活はそうではありません。それはこの世の生活において始まり、そして終わることなく継続するのです。なぜなら、マリアが選んだ部分は決して奪い去られることはないからです。活動生活は多くの物事に苦しめられ悩まされます。しかし観想生活は一つのこととともに平和の中に留まるのです。活動生活の低い部分は慈悲と慈善に関する善良にして誠実な肉体的労働に在ります。活動生活の高い部分と観想生活の低い部分は、人間自らの惨めさを悲しみと改俊の情を以て、クリストとその下僕らの受難を憐憫と同情の念を以て、また神の驚嘆すべき賜物、慈愛および物的、霊的な全被造物における神の御業を感謝と讚美の念を以て霊的によく黙想し、注意深く注視することに在ります。しかし(今の場合得られる)観想のより高い部分は、ただ神御自身のみの赤裸な存在に対する愛の運動と盲目的注視を以てこの聖闇と不可知の雲の中に宙吊りになることに在るのです。活動生活の低い部分においては、人は自己の外部にあり、また自己より下方に在ります。活動生活の高い部分と観想生活の低い部分においては、人は自己の内部にあり、また自己自身とともにあります。しかし観想生活の高い部分においては、人は自己より上方にあり、神の下方にあります。人が本性によっては達し得ない所へ、聖寵によって到達することを意図しているがゆえに、人は自己自身より上にあるのです。霊において、また愛の結合と意志の同意とにおいて、神と結ばれることを意図しているからです。
 活動生活の低い部分の時間に対しては停止していなければ、活動生活の高い部分へ達することは人間の知力にとって不可能です。それと全く同じように、人は観想生活の低い部分の時間に対して停止していなければ、観想生活の高い部分に達することはできません。それは非合法的であり、また外的な肉体的仕事がそれ自体如何に聖なるものであるにせよ、座して黙想にふける人がすでに成し終えた仕事、またなすべき外的肉体的仕事にその間目を向けることを妨げるものです。それと同様、不適当なことでもあり、また神の驚嘆すべき賜物、慈愛、および肉的、霊的な全被 造物における神の御業についての思惟と黙想が、如何に聖なる想いであり好ましく心地よいものであれ、神御自身を目的とし、神への熱心な愛の運動を以て聖暗と不可知の雲の中で働いている間は、人はそうした思惟と黙想が自己を襲い、自己と神との間に押し寄せるのを防ぎ守るものです。
 こうした理由で、私は、想いがどれほど聖であり、またあなたの意図をどれほどよく助けようと約束するにせよ、その鋭敏にして緻密な想いを引き下ろし、彼を忘却の厚い雲を以て覆うようにとあなたに命ずる次第です。なぜなら、愛はこの世の生活においても神に達し得ますが、知識はそれができないからです。魂がこの死すべき肉体に宿っている間は、あらゆる霊的存在を見ることにおいて、そして特に神を見ることにおいて、われわれの知力の鋭さは常にある種の幻想と混合しています。そのため、われわれの働きは必然的に不純なものとなり、特殊な例外を除いては、われわれを大きな誤謬へ導くものとなります。

 

 

 

                              ここに第九章が始まる

 

 この愛の盲目的活動に取りかかろうとする時、絶えずあなたを襲ってくる知力の鋭敏な運動を常に圧服することが必要です。あなたがそれを圧服しなければ、それがあなたを圧服するでしょう。その働きはたいへん強いので、あなたがこの聖暗の中に住むのを最善と考え、神以外の何者もあなたの心にないと思われる時でさえ、もしあなたが本当によく熟考してみれば、御自分の心がこの聖階ではなく、神の下にある何物かを見定めようと専念しているのに気づくでしょう。このような事態の下では、その間その事柄は疑いもなくあなたの上に在り、あなたと神との間に在るのです。ですから、そうした明瞭な光景は、いかに聖なるものであれ、またいかに好ましくとも、決然と引き下ろしなさい。
 一つのことを私はあなたに教えましょう。あなたの魂の目が開かれ、天国のすべての天使、聖人を観照し凝視し、至福のうちに在る者の間に聞こえる種々のさざめきと旋律に耳を澄ますよりも、神御自身を目的とする愛の盲目的運動と、不可知の雲の中に押し入った密かな愛こそ、あなたの魂の健康に一層有益であり、本質的により尊く、かつ神と天国のすべての天使、聖人をも一段と喜ばすものです。そうです、肉的および霊的友人、生者、死者すべてのあなたの友人にとって、よりよき助けとなります。それを所有し、心のうちに霊的にそれを感ずることのほうが、あなたにとってはるかに善きことなのです。
 私の言うことを訝からないで下さい。あなたがひとたび聖寵によって、この世の生活においてそれを感受し感知する段階に達し、明瞭に見ることができさえすれば、私と同様に考えるでしょう。しかし人はここ、この世の生活では決して明らかに神を見ることはできないことを肝に銘じておきなさい。しかし人は、神が与え給う時、聖寵によって感知することはできます。実を申しますと、あなたの愛をその雲の所まで神に引き上げていただきなさい。そしてあなたは神の聖寵の助力によって、他のすべてのことを忘れるようつとめればよいのです。
 あなたの意志と理性に対して押し寄せてくる、神の下なるいかなる事物に対する素朴な思念も、それらが無かった場合に比べれば、あなたをはるかに神から遠ざけ妨げます。そしてあなたが神に対する果実を体験で感ずるのを一層不可能にします。意識的、自発的に自己に引き寄せた思念以上にあなたの意図を妨げるものがありましょうか。いかに特別な聖人および清浄な霊的存在に対する思念でさえも、あなたをそれほどまでに妨げるのであれば、ほかならぬ惨めなこの世の生活を送っている人に対する思念や多種の肉体的、世俗的な事柄に対する思念が、この観想活動をどれほど妨げ損うかおわかりでしょう。
 あなたの意志と理性に対して押し寄せ、また敬神を増加させようとする思慮によって自発的に自己に引き寄せられた、神の下なる善にして清らかな存在に対する素朴、性急な想いは、たとえそのすべてがこの種の観想活動の妨げとなるとはいえ、だからとてそれが悪であるとは申しません。否、あなたがそのように受け取ることは神が禁じ給わんことを。しかしそのすべてが善であり聖であるにせよ、それでもなおこの活動においては私は現世に在る間のことをいっているのですが・・・それは有益であるよりは、むしろ妨げとなるというのです。なぜなら、完全な形で神を求めるものは、決して天国に住まう天使、聖人に対する想いの中に終局的に安住することはないでしょうから。

 

 自我意識など局所性の顕現である現象世界は「忘却の雲」の閾下にあり、現象に執着する自己欺瞞性を取り除かなければ、不可知の雲の閾下にあるより遍満なる仏心である自己の本質を生きることはできない。観想生活というのはこうした自己欺瞞に陥ることなきよう、自我においても自己においても自己観察することを示しているといえよう。不可知の雲・忘却の雲を貫き通している本不生にいきるには、自己欺瞞に陥る自心に気づく神の恩寵によらざるを得ず、自己凝視・自己観察こそが神の恩寵、愛の運動にほかならないのかも知れない。


不可知の雲からそして 神の祈りへ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

法坐にはいる前に

はじめに
神にとどけ平和への祈り 

もろもろの想いに攻撃されながらも、不可知の雲のほうへさしのべられた小さき魂の愛

小生の心は打ち震えるばかりであった。

 この書は聖ボナベントーラ、エックハルト、十字架のヨハネとならぶ中世神秘主義の代表的傑作とされている。75章にわたるその内容は、キリスト教の否定神学、すなわち、ブッダ親説に通ずる内容であることに気づく。
 死のふちにたつものへの最後の魂の救済の書なのかもしれない。 

 しかし、この書に
 熱望する愛の鋭き投槍を以て
厚き不可知の雲を射よ
 光輝に満ちた輝ける聖闇の世界と
人間性の知解の限界を超えた霊的絶対者たる神との完き合一のために
 聖寵のマントラをかかげよ
 
 とある。そのマントラとは、なにか?
 「神」「愛」のように短い音節をマントラにようにとなえよとしかなく、マントラそのものは記されていなかった。

 「神」「愛」たしかに、そうかも知れないが、それでは、これまでも言い古されている。
何かあるなら示し給え。

すると、直ちに、小生に、次のヘブライ語の祈りの文が与えられた。

カドゥッシュ カドゥッシュ カドゥッシュ
アドナイ ツァバット

聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな

主なる神よ 

地球全体が神の栄光に満ちますように

 このヘブライ語の祈りは、旧約聖書のイザヤ書。新約聖書のヨハネの黙示録にでている。

 そのようなことを調べている内に3月16日 ゼレンスキーがアメリカ議会で講演しているライブ配信を視聴した後、床に就き、静かに、この与えられたヘブライ語のマントラを唱えた。
 その途端、23:36 突然、全てが崩れ落ちるかと思われるほどの震度六強の地震に見舞われ、真っ暗闇。あちこちで救急車や消防車のサイレンの音が鳴り響いていた。
 大きな灯油タンクは倒れ漏れだし、石灯籠や石塔・・・、町内は石倉やブロック塀、古い木造の建物は全壊状態。全壊した寺もあります。家中散乱状態のなかこのような被害に気づいたのは明け方漸く電気が付いてからであった。賽の河原状態。揺れた瞬間状況は察知されるから、火事や怪我がなかったのが幸いであった。少しづつ片付けていくしかない。

 しかし、カドゥッシュ カドゥッシュ カドゥッシュ
アドナイ ツァバット

聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな

主なる神よ 

地球全体が神の栄光に満ちますように

 

 

は 不可知の雲からの神の恩寵である。

一刻も早い戦争終結と平和のため 常時 繰り返し唱えざるを得ない。

 

 

                            ここに第四十一章が始まる 
 さらに、あなたが観想活動においてはどのような思慮分別が必要ですか、とお尋ねになるならば、私は「全く何一つ要りません」と、お答えします。例えば、飲食、睡眠、酷寒、酷暑に対する身体の保護、長時間の祈繕、読書あるいは同胞クリスト教徒との会話の交わり等、観想活動以外の行為においては思慮分別を用いるべきです。そうしたものが、多すぎたり少なすぎたりせぬよう万事にわたり分別を保つべきです。しかし観想活動にさいしては節度、中庸を保つべきではありません。命在る限り、あなたにこの活動を決して中止していただきたくないからです。
 あなたが観想活動を常時新鮮に継続し得るものであるとは申しません。それは不可能です。時折病気や、肉体と魂の制御し難い他の素因が、人間の自然な性に必要な他の多くのことと相俟って大きな妨げとなり、頻繁に観想活動の高みからあなたを引き下ろすでしょう。しかし真剣なときも戯れのときも、換言すれば行為においても意図においても、常に観想活動を保持すべきであるというのです。それゆえあなた自身が虚弱の原因とならぬよう、能う限り適切に病気にかからぬよう、神に対する愛ゆえに用心して下さい。私は真実あなたにお教えするのですが、観想活動は大いなる安息と、霊肉ともに健康で清浄な状態が必要なのです。
 ですから、神に対する愛のため、肉体的にも霊的にも慎重に御自分を監督し、能う限り健康を保ちなさい。もしあなたの体力にもかかわらず病気にかかったならば、忍耐を以て謙遜に神の慈悲を待ちなさい。そうすればすべてがよくなりましょう。病気や他の様々な苦難のさいの忍耐というものはしばしば、健康のさいに心に抱くいかなる喜ばしい敬虔よりも、はるかに神を喜ばすものであると確かに申し上げられるのです。

 

 ここに第三十五章が始まる 
 とはいえ、観想の初心者がたずさわるに適した手段があります。それは日課、黙想および祈祷です。換言すれば、あなたの理解に従って、それらを読書、思考および祈りと呼んでも宜しいのです。これら三者に関しては、私が教え得るよりはるかに優って他の人の本に書かれているのを見出すことでしょう。ですからそれらの性質についてここであなたに語る必要はありません。しかし次のことをあなたにお教えしましょう。これら三者は相互に結び合わされているため、初心者および習練中の者にとっては――しかしこの世で在り得る限りに完全なる者にとっては当てはまりませんが――思考とは、読むこと聞くことが先行することなくしては速やかに獲得されるものではありません。読むととも聞くことも或る程度同一事なのです。学者は本から読み、無学な者は、学者が神の御言葉を説教するのを聞き、学者から読むのであると言えます。また、祈りも、初心者および習練中の者にとっては、思考が先行することなくしては速やかに獲得されるものではありません。この過程を実例によって御覧下さい。
 神の御言葉は、書かれたものであれ話されたものであれ、一枚の鏡に譬えられます。霊的には、あなたの魂の眼とはあなたの理性を意味します。霊的には、あなたの良心とはあなたの顔を以て表わされます。もし一つの汚点があなたの肉体的な顔についていれば、鏡なくしては、あるいは顔以外のものに教えられることなくしては、その顔にある眼は汚点を見ることができず、それが何処についているかもわからないのです。全く同様に霊的にも同じことが言えます。神の御言葉を読み、または聞くことなくしては、罪の習慣に盲た魂がその良心の中の汚点を見ることは人間の知力にとって不可能です。
 従って、肉体的にも霊的にも、一体顔の何処に汚点があるかを肉体的、霊的な鏡の中に見、あるいは他の人に教えられて知る時初めて、かつそれ以前ではなく、人は泉へ走り顔を洗います。もしこの汚点が何か特定な罪ならば、この泉は聖なる教会を表わし、水は告解の秘跡と罪の情況を表わします。もしそれが単に漠然とした罪の根元および衝動にすぎぬものならば、泉は慈悲深い神を、そして水は祈りおよび罪の情況を意味します。
 このようにしてあなたは、初心者と習練中の者にとっては、思考は読むことおよび聞くことが先行することなくして速やかに獲得され得ないこと、また祈りも思考なくしては得られるものではないことがおわかりでしょう。

 

 

                           ここに第三十六章が始まる

 

 ところで、この書の教える観想活動を継続的に行なう人々にとっては事情は異なります。彼らの黙想とは、読むこと聞くこと等のいかなる媒介手段も先行することなく、また神の下に在るいかなるものに対する特定の注視も伴うことなくして、ひたすら自分自身の惨めさと神の善性に対する急激な概念作用および盲目的直覚作用のごときものにほかならないのです。こうした急激な概念作用および盲目的直覚作用は、人間からよりはむしろ神から速やかに教えられます。
 「罪」および「神」という言葉を用いて行ない得る黙想、またはあなたの心に適う他の黙想以外に、今日ある御自分の惨めさや神の善性に関する黙想を何一つ持たなくともかまいません。もっとも、それはあなたが聖寵と霊的指導者により、そのように促されていると感ずる場合に限ります。敬虔の念を増加させようと期待し、「罪」および「神」という言葉の諸性質を熟考することにより、知的探究心を以てそれらの言葉を分解したり解明したりしなくともかまわないのです。この場合そしてこの観想活動においては、知力により言葉を分解、解明することがあってはならないものと私は信じます。そのようにすることなく、それらの言葉を全く総体的完全性において捉え、罪を、その本質を認識し得ないかつあなた自身にほかならない一つの土塊と見なしなさい。こうして罪を(あなた自身にほかならない)凍結した一つの土塊として盲目的に眺める場合、御自分の現在の状態以上に狂気的なものをそれに結びつける必要はありません、しかしたまたまあなたを眺める者には、あなたの立振舞に少しの変化もなく、肉体的に穏当に整っていると思うでしょう。あなたが如何ほど確固とした安息の中にあるにせよ、何の変化もなく、坐り、歩き、横たわり、もたれかかり、立っているものと思うでしょう。

 

 

                           ここに第三十七章が始まる  
 観想の聖寵により観想活動を継続的に行なう人々の黙想は、何らの媒介手段もなくして突然生ずるのと全く同様、彼らの祈りも突然に生じます。私は彼らの特殊な祈りを意味しているのであり、聖なる教会により指定された祈りのことを言うのではありません。観想活動を真剣に行なう人々はいかなる祈りにも優り教会の定めた祈りを敬うものです。ですから、彼らは昔聖なる教父方により指定された形式と規則に従い祈るのです。しかし彼らの特殊な祈りは、いかなる手段も計画的準備も特に先行しまた平行することなく、常に突然神に向かって起こるのです。
 非常に希なことですが、その祈りが言葉を用いて唱えられる場合、それは極く僅かな言葉を以て行なわれます。そうです、祈りの言葉は少ないほど良いのです。そうです、それがただ単音節の短い言葉にすぎなければ、二音節のものより良く、かつ霊の働きに一層相応しいものと思われます。観想活動を霊的に行なう者は、絶えず霊の最高にして至上なる尖端の一点に在るからです。これが真実であることを日常の自然な事柄に関する実例により御覧下さい。或る男女が突然の火事、または何か同種のことに驚けば、突然われを忘れ、精神の高みにおいて、助けを求めて叫ぶ緊急の必要に迫られます。そうです、してそれは如何ようになされるのでしょう。決して多くの言葉を用いることなく、また二音節からなる一語さえ用いません。それは彼の精神の緊急な必要と働きを表示するには余りに間怠(まだる)く思われるからです。それゆえ彼は驚愕の体で強い気迫を以て突発的に「火事だ」とか「嗚呼」とか単音節の短い言葉を叫ぶのみです。
 この「火事だ」という短い言葉が、聞き手の耳を一層神速に刺激し、一層急速に貫くのと全く同様、単音節の短い語は、話し考える時のみならず、霊の奥底で密かに意味される時も類似の作用を引き起こします。霊の深みとは高さのことです(霊性においては高さも深さも、長さも広さも、皆一つであるからです。それは上の空で歯の間でもぐもぐ唱えられるいかなる長い詩篇よりも、全能の神の耳を一層神速に貫きます。こうした理由で、短い祈りは天を貫く、と記されているのです。

 

 

                           ここに第三十八章が始まる  
 単音節の短く小さい祈りがなぜ天を貫くのでしょう。確かにそれは祈る者の霊の高さと深さ、長さと広さにおいて、全霊を込めて祈られるからです。その祈りは、霊の全力を用いるがゆえに高いのです。この小さな音節の中に霊の全機能が含まれているゆえに、それは深いのです。感ずるままに感ずるところを、叫ぶがままに叫び続けるがゆえに、それは長いのです。己れに欲するところを他のすべての人々にも望むがゆえにそれは広いのです。この時こそ聖パウロの教訓に従い他のすべての聖人とともに――この観想活動に相応しく、全面的にではなく或る程度までまた部分的にですが――永遠にして至上の美なる、全能にして全知なる神の長さと広さ、高さと深さを一つの魂が把握したこととなります。神の永遠性が神の長さ、神の愛が神の広さ、神の力が神の高さ、そして神の英知が神の深さなのです。聖寵により、造り主なる神の像、神の似姿にこれほど近似的に一致形成されている魂の祈りが神に聞き容れられても怪しむに及びません。そうです、非常に罪深い魂であっても――それはいわば神にとって敵であるのですが――聖寵により霊の高さと深さ、長さと広さにおいてあのように短い音節を叫ぶに至るならば、その鋭い叫び声は常に神の耳に達し、必ず助けられるものです。
 実例によって御覧下さい。あなたの仇敵が恐怖の余りわれを忘れ、精神の高みにおいて、「火事だ」とか「嗚呼」とかいう短い言葉を絶叫するのを聞けば、彼が敵であることも忘れ、この悲痛な叫びにかき立てられ引き起こされた純粋な憐憫の情のため、あなたは立ち上がり――そうです、真冬の夜中であっても――火事を消し、あるいは悩みを鎮め癒すため手助けに馳せ参じます。ああ主よ、人間は敵意を抱いている人に対してさえ、聖寵によりこれほどまでに深い慈悲と憐憫を持つに至るのですから、人間が神の霊の高さと深さ、長さと広さに作用されて形成される場合、神はその魂の霊的叫びに対し如何に多くの慈悲と憐憫を持ち給うことでしょう。人間が聖寵により有するものを、神はその本性において持ち給うからです。疑いもなく、比較を絶してはるかに多くの慈悲を神は持ち給うのです。本性において有するものは、聖寵により有するものよりその本体に一層近いのです。

 

 

                            ここに第三十九章が始まる  
 要は、われわれの霊の高さと深さ、長さと広さにおいて祈ることです。それも多くの言葉を用いることなく、単音節の短い言葉を用いて祈るのです。そうした言葉はどのような言葉なのでしょう。もちろん、祈りの特性に最も適した言葉でなければなりません。それはどのような言葉でしょう。まず最初、祈りとはその本性において何であるかを考えて見ましょう。そうすれば、どのような言葉が祈りの特性に最も良く適合しているかを一段と明瞭に知ることができましょう。
 祈りとは、その本性において、善を獲得し悪を除去するために、神に向けられた敬虔な志向にほかなりません。
 ところで、すべての悪は、原因としても存在としても、罪のうちに包含されるものであるゆえ、われわれが悪を除くために熱心に祈らんとする時は、「罪」というこの短い言葉以外の何事にも心を向けることなく、他の多くの言葉を話したり考えたりせぬようにしましょう。われわれが善を獲得するために熱心に祈らんとする時は、「神」という言葉以外の何事をもまた他のいかなる語をも、言葉の上でも思考の上でもまた欲求の上でも、叫ばぬようにしましょう。なぜなら、すべての善は、同時に原因としても存在としても神の内に在るからです。
 なぜ私が他のあらゆる語に優先して、これらの言葉を当てるのだろうかと訝からないで下さい。仮に私がこれら二つの言葉と同じく、すべての善と悪とを充分その中に包含している一層短い語を知っていたとすれば、または仮に、何か別の言葉を神が私に教え給うたとすれば、私はそれらを採用し、現用の語を捨てたことでしょう。従ってあなたもそうなさるようにと忠告します。言葉を研究してはなりません。たとえ研究したところで、御自分の目的にも観想活動にも決して達することはできないのです。それは研究により獲得されるのではなく、ただ聖寵のみにより得られるのです。ですから――私は前記の言葉を当てましたが、あなたが用いるように神から促された言葉以外は、祈りに用いるに他の言葉を以てしてはなりません。しかしもし神がこれらの言葉を用いるようあなたを促し給う場合には、それらを捨てることのないよう忠告します――私はあなたが言葉を用いて祈る場合を言っているのであり、他の場合は別です。なぜなら、それらはどごく短い言葉であるからです。
 しかし祈りの短さはここで大いに薦められるものであれ、だからとて祈りの頻度を控え減じてはなりません。すでに述べたごとく、それは霊の長さにおいて祈られます。従って、それは憧れ求めていたものを充分獲得してしまう時が来るまで、かりそめにも中止すべきものではありません。この実例は前述のように恐怖におののく男女に認められます。彼らは災難の助けを大方手に入れてしまわないうちは、「嗚呼」とか「火事だ」とかの短い言葉をとめどなく叫び続けることから理解できましょう。

 

 

                            ここに第四十章が始まる   
 同様にして、あなたは、小罪であれ大罪であれ、傲慢、憤怒、嫉妬、貪欲、怠惰、貪食あるいは邪淫などのいかなる種類の罪にも特に目を向けることなく、「罪」という言葉の持つ霊的意味を以てあなたの魂を満たしなさい。観想者にとっては、それがいかなる罪であるか、また如何に大きい罪であるかを気にかける何の必要がありましょう。最も些細な罪といえども彼らを神から切り離し、霊的な平安を妨げるのですから、観想活動中はという意味ですが――彼らにとってはあらゆる罪はどの一つをとっても本質的に大きなものと思われるからです。
 罪を、あなた自身にほかならぬ、しかも実体を認識し得ない土塊であると感じなさい。そこで、絶えず一様に「罪よ、罪よ、罪よ、去れ、去れ、去れ!」と霊的に叫びなさい。この霊的な叫びは言葉により他人から教えられるよりも、経験により神から一層よく教えられるものです。その叫びは、特定の想いまたは言語的発声を伴うことなく、純粋に霊的である時最も有効なのです。もっとも、霊が満ち溢れ、叫びが言葉となってほとばしり、肉体も魂もともに罪の悲しみと重荷で一杯になるな機会は別として。
 「神」というこの短い言葉を同じように扱いなさい。神の御業が善であれ、より善であれ、すべてのうちで最善であれ――物的であれ霊的であれ――神の御業に特に注目することなく、その言葉のもつ霊的意味を以てあなたの魂を満たしなさい。謙遜、愛徳、忍耐、自制、希望、信仰、節制、貞潔あるいは自発的清貧のいずれであれ、聖寵により人間の魂のうちに形成されるいかなる徳にも特に注目してはなりません。観想者にとってそれらを気にかける何の必要がありましょう。彼らはあらゆる徳を神のうちに見出し、感知することができ、また原因としても存在としてもそれらすべてが神のうちに在るからです。神を所有しさえすれば、すべての善を所有するものと思われるからです。それゆえ、ただ善なる神以外に何ものをも特定の注目を以て渇望する必要はありません。聖寵の助けで能う限り同じ方法を用いて行ないなさい。神以外に何ものもあなたの理性と意志のうちに作用しないようになるまで、全面的に神に心を向け神を観照しなさい。
 あなたが惨めなこの世の生活に留まっている間は、汚れ悪臭芬々たる罪の塊を、あたかもあなたの本性と一つに結ばれ、凍結しているかのごとくに常に感ずることが或る程度必要ですから、あなたは「罪」および「神」という言葉に交互に心を向けるのです。あなたが神を所有すれば、その時あなたは罪無く、そしてあなたが罪を持たなければ、その時あなたは神を所有するのである、という一般的知識を用いて行なうのです。

 

 

                            ここに第四十二章が始まる 
 ことによるとあなたは、寝食その他同種のことに関し如何に思慮深く自制すべきか、とお尋ねになるかもしれません。これに対して私は、「手に入るものを受け取りなさい。気づかうことはありません」と至極簡潔にお答えしようと思います。中断することなく分別を用いることなく、絶えず観想活動を行ないなさい。そうすればあなたは他のすべての働きを如何に開始し、また中 止すべきかについて、充分な分別を心得るものとなりましょう。思慮分別を用いることなく日夜観想活動を継続している魂は、そうした外的行為については何ら過つことはあり得ないと私は信じます。またその活動なくしては魂は常に過つものと思われます。
 それゆえ、魂の内部でこの霊的活動に不寝の眼を開き、一心に注視することさえできれば、飲食、睡眠、会話およびあらゆる外的行為を等閑にすることとなるでしょう。そうした外的な事柄に一所懸命注意するよりも、むしろそれらを等閑にすることにより、それらに対する思慮分別に達すべきものと確信します。それらに留意すれば、それらによって限界、制限を受けるでしょう。まことに自分が何をなし何を語るにせよ、そのようにしては思慮分別に達し得ないのです。人が何を言おうと言わせておきなさい。そして体験を以て証しとしなさい。それゆえ、愛の盲目的運動によりあなたの心を上昇させ、或る時は罪に、また或る時は神に心を向けなさい。あなたは、神を所有することを望み、罪を所有せぬことを望むのです。あなたに欠けているものは神であり、あなたが確保しているものは罪なのです。今こそ善なる神があなたを助け給わんことを!今こそあなたには神が必要なのです。


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