龍雲 心の通信 2

沈黙の岩

境内の天神堂側の一角に自然石が一基祀られておりそれが何であるか長いこと不明であった。隣には「雷 神」と刻まれた石碑があるが、自然石の方には文字も図像もなく、それが何であるかは知る由もない。ただ、 昔から「これは隠れキリシタンのマリア観音でね。ある時間になると子供を抱いた観音さまが現れる」と古老 から聞かされていて、子供心に興味を覚え、一日中じっと眺めたこともあった。しかし、何となく全体が赤子 を抱いた姿のようには見えるが、ただのごつごつした岩でしかなかった。

 

 最近、隠れキリシタンの研究をしているという方が突然訪ね来られた。あいにく確証する資料は何もなく申 し訳ないと思っていると、逆に桑折町に隠れキリシタンが存在していたことを裏付ける米沢藩上杉文書の資料 や立教大学高田茂教授の『石のマリア観音耶蘇佛の研究』などの貴重な資料をたくさん頂戴した。その中で、 この寺の自然石がマリア観音として紹介されている。

 

 桑折には半田銀山があり、奥州・羽州街道の分岐点であるので、かなり多くの隠れキリシタンが移り住んで
いた。
 元和年間の徳川幕府によるキリシタン禁教令や追放令はきわめて過酷なものであった。処刑された者は数限 りなく、奥羽に逃れた隠れキリシタンも転びキリシタンとして子供や孫たち六代に及ぶまで差別されてきた。
それは世界史上まれにみる弾圧と殉教の歴史でもあった。
 今日でも、殉教者と称する者たちの痛ましくも激烈な行動は世界中を震撼させる。しかし、ごく一握りの支 配権力の犠牲になる者はいつの時代も純真で敬虔な大衆といわれる人々である。

 

 それはともかく、なぜ、この寺に自然石のマリア観音が祀られたのであろうか。この寺に「天神」や「雷 神」や「観音」が祀られてあり、それが「天にまします神」や「ゼウス」や「聖母マリア」を隠れて信仰する にはちょうどよかったからなのであろうか。

 

 突然の来訪者に触発されて、夕日が沈む頃まで、じっとこの自然石マリア観音を見つていた。相変わらず寡 黙な石ではあるが、ふと、こんな声が聞こえた。

 

「それは悲惨なものでしたよ。同じ血の通った人間同士が信仰や立場の違いでお互いを疑ったり、争ったり、 殺したりするのですからね。こんな悲しい光景はありません。何が人をしてこんなに狂わしめるものなのか。
 ほら、耳を澄ましてご覧なさい。聞こえてきませんか。諸々の人々の悲痛な叫び声が。
 攻める者も攻められる 者も、信ずる者も信ぜざる者もみな同じく悲しみもがき苦しんでいるのですよ。誰もがかけがえのないいのち を頂戴しているというのに、どうして人々は利害や主張にこだわっては争わざるを得ないのでしょうか。私は これまでずっと人類の愚かな悲しみと苦しみの声を黙って聞き続けてきましたが本当に悲しいですね。」

 

 江戸時代に建立されたマリア観音。実はあまりにも凄惨な宗教弾圧を見かねたこの地の人々の、同じ人間と して、本当の救いの神は見えないところで一であり、この世でみな倶に共生すべく生き延びよという大慈大悲 の思いが込められているように思える。

 

 どうやら、この自然石は、今、世界に向けて、長い沈黙を破り、人類の悲しみの歴史を少しずつ語り始めて
きたのかも知れない。愚かさを繰り返さないようにと・・・・


崩れた墓石

「兄さん、どうしたことかお医者さんがね、思い切って田舎に帰ってみてもよいといってくれたんだ」と嬉 しそうに妹から電話が入った。妹は3年ほど前に末期がんの4段階のBと診断され、2回手術を受けていた が、最近とみに体力が衰え、自分で動けることもままならない状態であった。兄と妹の二人きりの妹で、嫁ぐ まで、この寺で病弱な母を長いこと看病し、寺を大切に護ってくれていた。嫁いでからも、いつも寺のことを 気にかけ、父や兄の手が行き届かないところを誰にも気づかれないように陰ながら手伝ってくれていた。そん な妹だけに、どうしても、一度、寺に帰ってご本尊に御礼を申し上げたいと言い出し、医師が無理だというの も聞かずに帰りたがっていた。一人息子に付き添われながら、必死の思いで東京から寺に帰宅し、まるで苦行 する釈尊のようながりがりの身体で、7日間、寺で禅定し、再び、夫と息子の待つ東京へ戻った。
 妹に何かある度に、必ず私には事前にご本尊からお知らせをいただく。そして、祈ると妹が楽になるという
不思議なことばかりが続いていた。

 

 一ヶ月したある日、特に用事もなく寺の墓地を見回っていると、もう長いこと無縁化しているぼろぼろに崩 れた一つの墓石に目がとまった。正面も裏も完全に崩れていたが、脇にかろうじて文字が残っている。紙を当 て鉛筆でこすると、なんと!それは百年前のこの寺の住職の奥さんであった。
 ああ!何と申し訳ない!長い間 誰も気づかず、忘れられていたのか。何ということか。寺にとってかけがえのない方であるのに・・・・。

 

 「明治三十年十二月五日船尾家初代妣マス。」過去帳で確認し、間違いなかった。さっそく花を手向け供養 させていただいた。
 すると、その日、妹が再入院したという知らせが入ったので、「もしかすると、このマスさんのおかげで、もう少し楽になるかも知れないね」と励ました。
 しかし、その数日後、妹の容態が急変し、私が駆けつけるのを待って、静かに息を引きとった。五十一歳で あった。まるで、寺にとってかけがえのない人のことを忘れないようにと言い残すかのように、百年以上も前 に忘れられていたマスさんと同じ命日、十二月五日に他界したのである。

 

 近年、寺のお墓の事情も変わりつつある。少子化や夫婦別姓の時代、子孫に迷惑はかけられないということ で、散骨や自然葬を希望する方が増えているという。それはそれで一つの時代の流れであろうが、寺に住まわ していただいていると、人の生死には何かもっと厳粛な、そして一人一人に吹き消すことのできないいのちの 輝きというものが現存しているように感じられてならない。

 

 いまこのときを生かされ生きているものにとって、かつてやはり同じようにこの場でこのときを生きていた 人の思いというものが時代時代の幾重にも重なって、かけがえのない独りの人の生を支えてくれているような 気がしてならない。

 

 たとえ墓は風化し、無くなろうとも、かつてそこに生きていた人の思いというものが、ときには、慈雨とな り、心地よい風となり、朝の光となり、きらきら輝く雪解けの滴となって、私たちの思いと共に生きている、 そんな気がしてならない。一人の忘れられた墓石は、それでも時代とともにいまを生きている一人のいのちの 決して吹き消すことのできない「不生」を厳然と示していた。


音なき音を聞く

道を歩むおりなど、際限もなく心に浮かんでは消え、浮かんでは消えると散漫になりがちがちな 我がこころに「今ここ ありがたし」と注意をうながしつつ歩む。 すると、さほどでもないことなのだが、ふと、「我に気づくよう」今ここをみることがある。気づくこと が多くなる。
 それほど、「我」というものは「我を忘れて」心のなかでおしゃべりに夢中であり、絶えず、きのう・き ょう・あしたと思いを巡らして、やすむ隙もないのであろう。まして、気がかりなこと、やらねばならな いことなど厄介な問題を抱えたりしていると、心ここにあらずで、際限もない堂々巡りの思考の渦 中にハマってしまう。
 しかし、これは無理もない。人とのさまざまな関わりにおいて、人はさまざまな葛藤や不安や恐怖 に晒されるあるがままの心境なのだから。
 こうした心境にありながらも、道を歩んでおると、ふと、どこからとも無く篠笛の音色がかすかに 聞こえてきた。その音色はかすかだが澄んでおり、はっきりとしていた。しかも、あたりの全ての響き を際立たせ、美に変えていく圧倒的な力があった。
 その笛の音とともに鳥の声、風のゆらぎ、列車の音、田畑をうねる耕作の音や人の話し声、川のせせらぎ、遠く山並みに囲まれた盆地に烟り立ち、寺の鐘の音、そばを車が駆け抜け、急ぐ自 転車の軋む音、人に驚く犬の声辻の家の三味の音、メール着信を知らせる携帯の音・・・それ らが、一瞬にして、そう、全世界が今ここに息づくかのような美をもたらしていることに気づく。
まさに「今ここ ありがたし」である。
 あの笛の音は一体どこから聞こえてどこへ去ったのか。気のせいだったのか。いいや、明らか に、どこからともなく響いてくる麗しき音色であったが、確かめるとそこには無音しかなかった。不 思議に思いつつ道を歩む。夕暮れの帳が降りるうち、すっくと立つ木々の影が独立自尊の今を 顕示しつつ、静寂に中にのみこまれていく。
 あの笛の音は確かに「今、ここ在ること難し」であった。かすかだが、あるがままの全てを明らかに する不可思議な音色であった。
 夕暮れ時、田畑の広がる真っ直ぐなあぜ道をどこまでも歩む。はるか向こうの森の寺から晩鐘 の祈りの響き伝わると、一日の畑仕事を終えた農夫たちが、ふと「我にかえった」ゆに、鍬や鋤 の手を止めて、静かに祈っている。その姿は全世界で 繰り広げられている悲惨な苦悩をそのまま包み込むかのように、寡黙ながら慈悲に満ちて世界を 圧倒するかのように「今ここにあること難し」と響いているようであった


大師秘伝

昨年から今年にかけて、或る不思議な響きが内面においてずっとしていた。  
 しかし、それ は、音というより無音に近い重く深い響きであり、また、語りかけているようにも思えるが、言葉とし て明
確ではない。

 

 だが、その響きは、明らかに、何らかの意思を伝えようとしているかのようであり、繰り返し響いて いる。しかも、その響きは四六時中、絶えることなく、すでに一年以上経過し、今日に至ってい る。

 

 未だ言葉にならない響き、イメージにならない想いではあるが、時折、突然、自分の中で、フォ ーカスし、明確化されることが、度々起こることがあった。そのフォーカスはたいてい、予期せぬ 時に、一瞬にして起こる。

 

 繰り返し起こるフォーカシングとその都度に明確化してくるビジョンは、いわゆる暗在系と明在系の接点にあらゆる存在の核心であることを象徴するものであった。

 

 暗在系とは遍在性、すなわち中心のない遍満性なるが故に決して観測し得ない系をいう。神学的には神の国や天国。仏教的に極楽浄土、蓮華蔵世界、曼荼羅界など神話や象徴によ って表現を試みるが、表現し得ない先験性、すなわ阿字本不生を指す。
 明在系とはビックバンからビッグクランチにいたるすべての存在系であり素粒子からマクロ大宇 宙に至る森羅万象の生死流転の現象界を指す。
 暗在系はその中心性の無い遍満性から先験性そのものであるが、明在系は中心を持つ局所性によるがゆえに顕現される世界であり、観測、計測可能な系で宇宙の始まりから終わりまで をこの明在系によって把握される。

 

 ここで与えられている重要なメッセージは、明在系における局所性や中心性は単なる断片化 された個々の集合と相互依存性にあるのではなく、個々は完全なる独自性を有するが故に自他の独自性を含み越える新たな独自性を生み出しうることによって含み越えられ統合されるとい う新た
な独自性と創造性が、暗在系の遍在・遍満性によってもたらされるということである。
 明在系は時間や空間や次元の枠による条件付けに縛られるが、その背後には時間や空間 や次元の枠に非ざる暗在系が時々刻々に先験的に作動している。しかも、個々がより大きな個 に含み越えられる場合、全体が個を支配するということではなく、完全に自立し得た個が適格 に統
合されて初めてより大きな全く新しい統合体が創造されるというホロン構造的に進化するの が明在系の本質であることである。その統合の本質にあるものがいわば暗在系の先験性である のだが、暗在系というのは明在系の次元を越えたところにあるが故に本質として先験として次 元を通じて
明在系の次元に経過し、顕現化されたものは消失するが、先験より次々に生み出さ れる。

 

 ここでいう次元とは、わかりやすく言えば、仮に一次元は点でその動きは前後の直進性のみの 次元。仮に一本の橋を渡る時に、一次元の人間が同士が向こうとこちらからやってきて橋の真 ん中でぶつかれば、譲るスペースはこの次元にはないから、どちらかが後戻りするか、相手を倒 さない
限り前に進めない。二次元というのは一次元の前後に左右の次元が加わった面の世界であるので、ここで、直進しかできない一次元の人間と前後左右の平面を移動できる二次元の人間が出会ったとき、一次元の人間は前に進むか後ろに戻るかのどちらかしか選択肢はない が、二次元
の人間は、ちょっと脇どけて一次元人間を交わして前に進むことが可能だ。そのと き、一次元に人間の目には右左は目に入らないから、目の前から二次元の人間が突然姿を 消して、突然後ろに現れたとしか見えない。同様に、二次元は面の移動しかできないので、前に壁が立ち はだかれば引き返すか壁を壊すしかないが、三次元の人間は上下の次元が加わるので、壁を 飛び越えれば先に進める。三次元の人間がジャンプしたとき二次元の人間には、三次元の人 間が突然消えて、突然壁の先に現れたと思うだろう。同様に、三次元の人間は四方八方上 下とも囲われてしまえ身動きがとれないが、四次元の人間は平気でその囲みを通過できる。わ れわれは五官六根の感受できる三次元の世界を見ているが、暗在系という四次元以降多次 元からやってくる先験性によって顕現化さた明在系を見ている。このように次元とは一つの仕切 り板すなわちスリットのようなものであるのだが、その次元におけるスリットの穴を通して暗在系と明 在系が交差していることが今回の重要なメッセージである。

 

 その暗在系と明在系の交差する中心性が万生万物あらゆるものの自立性、自存性であり、 ミクロからマクロにいたるまで同一の中心性すなわち一者、密教的には大日如来、神学的に はキリストといった象徴で表現されり二のない一である。 これらは次元におけるスリットの上では 大円で映し出されるが、それは仮想であり、実相はあらゆる次元を突破した暗在系と明在系が 中心でねじれてもともと裏も表もなく、暗在系と明在系を統合させる宇宙の重力磁場が作用し た時々刻々の全く新しい創造の源であり、その心があなた自身であることを自覚しなければなら ないということだったのである。

 

 新年早々、理解しがたい心の通信となってしい、小生の至らなさをお詫び申しあげる。
が、ずっと響いている不可思議な響き の正体はこれらを象徴するあの弘法大師の御影の右手に持つ五股金剛杵が個々の万 生万物が内在させている不生の仏心であり、明在系と暗在系の中心にあってかけがえのない 生命であり、それを脅かすいかなる驚異が目の前に立ちはだかろうと、暗在系の金剛不壊心(いかなるものも破壊し得ない堅固な本不生心)の遍在性すなわち遍照金剛であることをひとりびとりが 今ここに自覚すべきことがあの不可思議な響きの正体ではないかと感じている。

 

 このような内示があるときは必ず決まって大変動が起こるまえぶれであった。それはしかし、災い転 じて福となすために与えられるものである。何事か不測の事態に遭遇した時は南無遍照金剛、即ち自心に不生の仏心である五股金剛を観ぜよと指し示しておられるノかもしれない。
われわれにとって、いま、世界はことそれほどに重大な局面を迎えている。
                                             萬歳楽山人 龍雲好久


天も感じたりや供養の風涼し

この寺は俳聖松尾芭蕉が活躍していた時代に建てられた寺である。開基和尚は芭蕉より十 年先輩で、芭蕉と同じ年に遷化している。
 この時代は今のように人々が自由に往来できる時代ではないのだが、しかし、文化交流は極 めて深いものがあり、不思議に思う。
 今日の飛躍的な情報伝達や交通網の発達は、当時の状況に比すれば、天地ほどの違い であるのだが、文化の深みについては、自身を顧みて、なお、この時代にな全く及ばないように感ずる。

 

 享保四年五月に、この寺で俳聖芭蕉翁追善供養が開かれ、人々の暮らしに薫り高き豊か な正風を吹き込まんと、石に「芭蕉翁」と刻し、芭蕉が須賀川の等窮宅で詠んだ「風流の初め やおくの田植えうた」の短冊を土中に埋めて「田植塚」が立てられた。このような芭蕉翁を追慕す る句
碑は日本全国に約3000基ほどもあるのだが、その中でも、この寺の石碑は奥の細道中、東北ではもっとも古いものであり、今日でも、著名な俳人が時折、訪れているらしい。

 

 この芭蕉翁の苔蒸した石碑は、黙して何も語らないが、亨保四年の春と秋に発刊された俳諧誌 『田植塚』乾・坤の写しが今でも残っている。
 それに目を通すと、この時代の文化の香りが漂っ てくる。 この誹諧誌には挿絵はあって、かつての寺の境内の様子や、乙女の田植え風景が描 かれていて、当時の様子を今でも彷彿とさせる。

 

 その句集は追善興行一人一句で、まず、句集の編者燕説から始まる
 風流の田うた揃えむ初手向
 稽首して咲ゆりの一族
 このあと三十人ほどの句が続く。
 そして、碑前手向として
五月十二日導師を請し 朝日山におゐて供養をいとなむ。おのおの碑前に合爪して風雅安楽 の
華を捧げ奉るとして、
 天も感じたりや供養の風涼し
 蛍かな石碑の箔の底ひかり
 とふらいによれ芍薬の羅漢たち
 奉るあやめに墓も動くべし
 其流汲んで手向んかきつばた

 

 と近在のものから遠方全国各地の俳人の句が百人ほど続くのである。芭蕉の高弟などの句 が多く納められていて、俳諧草分けの頃の貴重な俳句集であるが、その初版本はこの寺には残されておらず、ただ、その 写しがあるだけである。 

 

 この俳諧誌に描かれたこの寺の境内の絵図を見ると、実に整った伽藍であった。四百年ほど 経た今では、当時の地勢を残して、見る影もない。が、それでも、田植塚や本堂、天神堂、蓮 池、隠れキリシタンのマリア像など歴史の痕跡はかろうじて護り伝えられているのである。

 

 さて、享保四年頃のこの寺絵図にに、清流と蓮池が描かれていて、その池は今でも残るが、 雨水しか流れ込まないドブ池となってしまっている。ドブ池とはいえ、ザリガニ目当ての子供たちで毎日賑やかである。
 再び蓮池にしようと、たくさんの蓮を池に植えてはみたものの、ことごとくだめであった。ザリガニ が、蓮の芽をすべてちょん切ってしまうのである。ザリガニの繁殖力はすごくて、毎日子どもたちが ザリガニ釣りに来ていても、早朝白鷺がザリガニを食べに来ていても、いっこうに減らない。大きな鉢に蓮を入れて、水面より高くしてみてもだめであった。

 

 この池に蓮は無理だなあとあきらめざるをえなかった。六十年以上この池に蓮が咲いているのを見たことはなかった。

 

 ところが、今年の夏は、蓮にとっては向いている気候なのだろうか、寺の北側の別の小さな池 に、関西から頂いた蓮が池全面に広がり、色とりどりの美しい花を咲かせ、九月になった今でも まだ咲き続けてくれているのである。植え込んで二年目だが、こんなにいっぱい咲かせてくれると は思っても見なかった。大きな葉の緑と高く伸びた先の蓮の花は実に美しい。池全体に葉が生 い茂り、鳥から魚を守っていた。高い茎の華のつぼみがいくつも出ていて、毎日がとても楽しみ であった。
 最初に開いた花は真っ白で実に清浄で気高く、気品のある白蓮であった。
 確かに、今では、古代蓮などと称した蓮が大きな鉢に植え込まれて門前を飾る寺も増えてはいるが、やはり、池の泥田に自生する蓮の力強さと美しさには全く適わない。
 蓮の本当の美しさを毎日楽しませていただいた。

 

 ただ、この寺は、前々からそうであるように、いつもと違うことが起きる時には、必ず、如来からの 啓示が含まれていることが多い。しかも、如来の慈悲の光明が間近に示されるときには、決まっ て、我々にとってははなはだ困難な課題に直面することと一体である場合が多く、なにか深いわ けがあるのであろう。とはいえ、これは不吉な予見というよりも、避けられない宿命、因果に苦しむ ことがあって、その大きな試練に直面せざるを得ない状況にあることを如来が察知されておられる かのように、不可思議にも身近な自然現象通して、警告を発せられのである。

 

 だが、この如来性というものは、何も特異な神々や仏菩薩明王が出現するのではなく、われわれのあるがままの現実という事実を通して発現されている。それゆえ、奇異な現象ではなく、どんな不可思議なことも自然法爾なのである。天地自然すべての生きとし生けるもののあるがままの事実の中にこそ、如来からの語りかけがなされている。その、語りかけに気づく文化が芭蕉の正風でもあったように思われる。

 

 池に自生した蓮を見ていると、あのブッダの姿が偲ばれるのである。
 かつて、ブッダは、戦争や疫病、自然災害や社会の不平等に苦悩する人々の傍らに立っ て、
こう語られた。 「苦悩するものよ、あの汚泥に咲く蓮の花をご覧なさい。あなたの本性は、あの蓮の花のように、どこまでもまっすぐで、毅然としていて、力強い。かくも美しく、決して汚泥に染まることがな、決して何者も穿つことの出来ない尊いいのちである。その、まっすぐないのちは生死という現象世界ではない「本不生」という「一者」からすべて発せられているからなのだ。何者によっても破壊される ことのない本不生のエネルギーとはあの蓮の花のようなものである。

 

 さあ、悲しむものよ、苦しむものよ、心を落とし、生きることを見失ったものよ、怒り、恐れ慄くもの よ、おしゃべりに夢中になっているものよ、世をはかなんでいるものよ、虎視眈々と盗みを働くもの よ、神のために正義の為に民衆のためにと自らを誇示するものよ、しばしとどまりてあの麗しき蓮をよ く見給え。 あの蓮の花に、混沌とした宇宙からほとばしり出た麗しき瑠璃色の大地(惑星地 球)に、乳雲海が漂い、激しい稲妻の光が十方に放たれ、そのエネルギーは龍のごとき上昇と 下降のエネルギーとなって生命体をはぐくみながら永遠の運動を繰り返す実相を顕し、その実相である如来性が、いま、ここに見事に全く新しいいのちの花を咲かせているのだよ。混沌の中にとどまり固着するものは何もなく、あの如來性のみが、刻々と全き人生をいま、ここに、如実に生きている。 君たちはすべての混沌から解き放たれた全き新しいのちをいきているのだ。
 何一つ、この働き、一者から離れるものはない。
 しかし、なにゆえにこうも世界は激しい苦悩に覆われてしまうのであろうか。それは、この本質を 見失い、自己欺瞞というどろどろした虚妄なる世界に病没しているからにほかならない。
 何が矛盾、欺瞞を引き起こすのか、まっすぐに、見なさい。どんな恐ろしいことがあって も、君の本性は決して覆されることはない。 そして、あの蓮の花のように麗しき人生の花を咲かし続けなさい。如来は君が苦しんでいるからこそ、いつも君とともにいることを知りなさい」
と語られて いる。
それを聞いたのである。

 

 四十五年も毎年伺っている師匠の寺の檀家さんのところで、暑い盛りの盆のお棚経を終え帰ろ うとすると、八十近い亭主が、 習いたてだという句を詠んでくれた。
  棚経の僧の背あおぐ母おもう
  棚経の僧の声残りて母しのぶ

 

この方も数年して仏の世界に帰られた。


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